食材から辿る / 新大陸(コロンブス交換)

トマト 素材 時期 C検証済

成立年代 前500〜

トマトが、いつ・どこで食べ物として成立し、各地へどう伝わったかをまとめています。 原産地での成立を3ゲート(食材入手・調理技術・場)で示し、その後の各地への到来を記録でたどります。

南米アンデスで初期段階、のちメソアメリカ(南メキシコ)で栽培化が進み、およそ前500年ごろまでに南メキシコで栽培。アステカが xīctomatl として料理に用いた(スペイン接触16Cで記録)。原産地食用成立は前コロンブス期・年代に幅

3ゲート

食材入手ゲート
栽培化(メソアメリカ=南メキシコで栽培化)=およそ前500年ごろ
調理技術ゲート
生食およびサルサ・ソースへの調理。原産地で在来の自明な用法
場ゲート
食材入手と同年(原産地メソアメリカでの食用は栽培化=入手と同時に成立。場ゲートは退化)。※イタリア1548年の観賞用到来など旧大陸への物理到来は食用前の前史であり場ゲートに数えない

トマトはどこから広がったか

トマトは南北アメリカの原産で、アンデスからメソアメリカにかけての一帯で栽培化された作物である。ヨーロッパの記録に現れるのは、コロンブス以後の大西洋を越えた作物のやり取りを通じてのことだった。16世紀のヨーロッパのトマトを洗い直した2022年の研究によれば、イタリアの記録に現れる最も古いものは1544年、ヴェネツィアで刊行された医師ピエトロ・アンドレア・マッティオーリの本草書である。そこには、我々の時代にイタリアへもたらされた新しい種として、熟すと黄金色になり、ナスと同じやり方で油と塩と胡椒で揚げて食べる、と記されているという。最初の証言が、すでに食べ方に触れているわけである。ただしこの本の著者は1541年以降ゴリツィアに定住して旅をせず、記述は文通相手から届いた知らせに拠っていた。1544年はイタリア全体についての証言であって、半島のどこに実物があったかまでは伝えない。

現物の記録として名高いのは、その四年後である。1548年10月31日、フィレンツェ近郊トッレ・デル・ガッロのメディチ家の所領から、ピサに滞在していたフィレンツェ公コジモ1世デ・メディチの一行のもとへ「トマトを一籠」が届き、所領の家令がそれを公の私設秘書へ報せた。この書簡はトスカーナに現物があったことを示すと同時に、pomidoro(金のリンゴ)というイタリア語の最も古い証言でもある。同じ研究は、この時期のトマトが単なる観賞用の珍品として栽培されていたのではなく、16世紀半ばには少なくとも一部のイタリア人がすでに食材として試していた、と結論している。食べ物として広く用いられるようになるのは、それより後の17世紀末から18世紀にかけてのことである。

イベリア半島では、事情がいくらか異なる。1592年、アランフエスの王立庭園の司祭グレゴリオ・デ・ロス・リオスの園芸書『Agricultura de jardines』は、赤く熟す二、三の種類を挙げたうえで、これは「ソースに良い」と書き添えている。セビーリャの施療院サングレ病院の買物帳にも、1608年7月20日にトマト四ポンド、8月17日に二ポンドを買い入れた記録が残る(ただしそれ以降、帳簿にトマトは現れない)。スペインの港にトマトが着いた瞬間の記録は残らない。それでも、王室の庭で書かれた記述と施療院の台所の買物が、食べ物としてのトマトの最初期の姿を伝えている。この経緯は、メキシコ国立自治大学の研究誌に載ったジャネット・ロングの調査が整理している。

知られるかぎり最も古いトマトソースのレシピを残したのは、南イタリア、とりわけ港町ナポリだった。1692年、アントニオ・ラティーニの料理書『Lo scalco alla moderna』が「スペイン風のトマトのソース」を書きとめている。原産地から旧大陸へ渡っておよそ一世紀半のあいだに、トマトは各地で皿の上の食材になっていった。イタリアでの歩みは、コロンビア大学出版局から2010年に出た『Pomodoro! A History of the Tomato in Italy』の著者ダヴィド・ジェンティルコーレらの研究が跡づけている。

地中海から各地へ

メキシコ産の作物をアジアへ運びうる船の道が開くのは、1571年、スペインがマニラを起点とするガレオン航路で太平洋の両岸を結んでからである。ただし、トマトがアジアの記録に姿を見せるのは、それよりずっと後になる。

東南アジアで文書にトマトが現れる最も古い例は、マルク諸島のアンボン島にある。1653年からこの島に住んだ博物学者ルンフィウスの『アンボイナ植物誌』(刊行は1747年)は「Pomum amoris. Tamatte.」の項を立て、よく耕した庭に植えられて目には快いが鼻には障る、それでも台所で用いる、と書く。熟した実を二つか四つに切り、脂ののった汁で煮てキュウリのように食べる。灰の中で丸ごと焼き、酢と油でサラダにすればなお美味い。若葉はアンボンの人々が魚とともに生のまま口にする。著者が世を去るのは1702年だから、この記述はそれ以前のものだ。ベトナムでは、フエ周辺で四十年近くを過ごしたイエズス会宣教師ロウレイロの『コーチシナ植物誌』(リスボン、1790年)が、コーチシナの庭と畑に、栽培によらずこぼれ種で生えていると記している。

南アジアで文書に確かめられる例は、いずれも19世紀初頭に固まっている。1801年の料理書『Nuskha-i Niyamat Khaan』は、トマトのスープを「tarkeeb-i tomaata soop yaani shorba wilayati baigan(外国の茄子のスープ)」の名で載せる。英語の音写とペルシア語の造語を並べた呼び名に、当時はまだ新奇で稀な野菜だったことがうかがえる。ついで1814年、東インド会社がカルカッタに開いた植物園の栽培目録で、ウィリアム・ロクスバラがナス属の一覧に南米産の lycopersicum を載せ、同じロクスバラの『Flora Indica』(1832年刊)は「いまやインドで非常に一般的」と書く。ポルトガルの交易を通じて16〜17世紀に伝わったという説は広く繰り返されるものの、それを支える同時代の文書はまだ特定されていない。

ビルマでは1860年、フランシス・メイソンが上ビルマのアヴァではトマトが豊富に穫れ、英領側の庭でも小規模に栽培されていると書きとめた。北インドの姿がはっきりするのは1864年で、トマス・ファーミンガーのベンガル・上インド向け園芸書は、ビラーヤティー・バインガン(外国のナス)という現地名のもとに大型の輸入種と現地採種の小型種の二系統を挙げ、雨季の初めに播いて10月に穫るという栽培暦まで与えている。種を自前で採る常用野菜になっていたということだ。

ヨーロッパの内部でも広がりは緩やかで、フランスの台所にトマトが入るのは18世紀末、マルセイユを窓口とした南仏プロヴァンスあたりからだったとされる。ドイツの庭に現れるのは18〜19世紀、大西洋を再び越えてアメリカで食材として定着するのは19世紀前半とされる。

十九世紀の世界化

19世紀に入ると、トマトは中東・アフリカ・東欧へと一気に裾野を広げる。レヴァント地方では、その前の世紀にはすでに庭にトマトがあった。アレッポの英国商館付医師アレクサンダー・ラッセルが著した『アレッポ博物誌』の初版(1756年)は、市街の小庭園で育てられる植物として唐辛子と並べてラブ・アップル(トマト)を挙げ、ユダヤ人を除く現地の人々はこれをほとんど食べない、と書き添えている。1794年の第2版になると、その記述は「以前は他の花と同じく鉢で育てるだけだったが、近ごろ畑で栽培され、バザールに運ばれるようになった」と改まり、現地の人々がこの実をフランク・バーディンジャーン(フランクのナス)と呼ぶことも記される。庭の草から市場の野菜へ移るところまでが18世紀のうちで、レヴァントの台所に常づかいの食材として定着するのは19世紀のことになる。オスマン帝国では1694年から宮廷の帳簿にトマトが現れ、1844年に出た料理書では野菜煮のソースとして常用されている。西アフリカやサブサハラで栽培の証拠が現れるのも19世紀のことだ。東欧ではウクライナで19世紀の最後の三分の一に、赤いボルシチでの常用が定まる。ただし鍋の赤い色はビートの色素によるもので、酸味の芯も古くからビートを発酵させたсирівець(ビートクワス)が担ってきた。トマトはその酸味づけに19世紀の増補として加わった補助であって、ボルシチを定義する食材ではない。バルカン半島では、19世紀の前半にはすでに畑と鍋の両方にトマトが入っていた。1836年から1838年にかけてオスマン領ヨーロッパを踏査した地質学者アミ・ブエの地誌(1840年刊)は、ニンニク・ソラマメ・インゲン・キャベツ・カボチャ・キュウリ・レタスと並べて栽培野菜にトマトを挙げ、トルコ語・スラヴ語・ギリシャ語の現地名まで注に添える。食事の章では、いくらか暮らし向きの良い家ではトマトソースの煮込みが供され、ピラフにもまれにトマトの汁を使うと書きとめている。イランのカージャール朝の宮廷庭園にはフランスから1882年にもたらされたとされる。イタリアの本草書に最初に書きとめられたときすでに油で揚げて食べると記され、スペインの庭書にはソースに良いと書き添えられたトマトは、こうして三百年あまりをかけて世界中の食卓の色になった。

各地への伝来 51

各地で食べ物として定着した時期の記録です。地域によっては、それに先立つ物理的な到来(観賞用など、食用より前の前史)が含まれることがあります。

  • 前500〜1519頃 メソアメリカ 在来在地栽培
  • 1540〜1750頃 ポルトガル 新大陸交換
  • 1544〜1692頃 イタリア 新大陸交換在地栽培
  • 1544〜1759頃 トスカーナ 新大陸交換
  • 1544〜1692頃 ナポリ 新大陸交換
  • 1544〜1692頃 南イタリア 新大陸交換
  • 1548頃 イタリア 新大陸交換
  • 1571〜1700頃 フィリピン 新大陸交換
  • 1571〜1790頃 ベトナム 新大陸交換
  • 1571〜1702頃 東南アジア 新大陸交換
  • 1592頃 スペイン 新大陸交換
  • 1597〜1830頃 英国 新大陸交換
  • 1600〜1860頃 ミャンマー 新大陸交換
  • 1600〜1864頃 北インド 新大陸交換
  • 1600〜1814頃 南アジア 新大陸交換
  • 1600〜1862頃 南インド 新大陸交換
  • 1692〜1796頃 マルタ 新大陸交換
  • 1692〜1790頃 ローマ 新大陸交換
  • 1694〜1844頃 アナトリア 新大陸交換
  • 1694〜1800頃 アルジェリア 新大陸交換
  • 1694〜1798頃 エジプト 新大陸交換
  • 1694〜1800頃 チュニジア 新大陸交換
  • 1694〜1840頃 バルカン半島 交易路
  • 1694〜1756頃 レバント 新大陸交換
  • 1694〜1798頃 中東・北アフリカ 新大陸交換
  • 1750〜1850頃 ドイツ 新大陸交換
  • 1750〜1840頃 ハンガリー 交易路
  • 1750〜1790頃 プロヴァンス 新大陸交換
  • 1750〜1835頃 米国 新大陸交換
  • 1756〜1794頃 レバント 新大陸交換
  • 1780〜1900頃 ロシア 新大陸交換
  • 1800〜1900頃 アナトリア 新大陸交換
  • 1800〜1916頃 イラク 新大陸交換
  • 1800〜1836頃 エジプト 新大陸交換在地栽培
  • 1800〜1900頃 コーカサス 新大陸交換
  • 1800〜1876頃 サウジアラビア 交易路
  • 1800〜1900頃 サブサハラ・アフリカ 植民地交易
  • 1800〜1853頃 チュニジア 新大陸交換在地栽培
  • 1800〜1900頃 ポーランド 新大陸交換
  • 1800〜1874頃 モロッコ 新大陸交換
  • 1800〜1842頃 ルーマニア 交易路流通
  • 1800〜1878頃 中東・北アフリカ 新大陸交換
  • 1800〜1891頃 南アフリカ 植民地交易
  • 1800〜1900頃 東アフリカ 植民地交易
  • 1800〜1908頃 湾岸地域 新大陸交換
  • 1800〜1849頃 西アフリカ 新大陸交換
  • 1804〜1900頃 フィジー 植民地交易流通
  • 1815〜1828頃 ギリシャ 新大陸交換
  • 1816〜1827頃 セネガル 植民地交易
  • 1850〜1900頃 ウクライナ 新大陸交換
  • 1882〜1900頃 イラン 新大陸交換流通

どこまで広まったか 普及の記録(成立史とは別軸)

時期種別地域・媒体数量状態出典・注記
1830–1853 言及範囲 イラク ・ 旅行記 不在確定
archive.org の全文4点を tomato / tomata / love-apple / badinjan で全文検索: Rich『Narrative of a Residence in Koordistan』(1836, narrativeofresid01richuoft)/Buckingham『Travels in Assyria, Media, and Persia』(travelsinassyria00buck)/Layard『Nineveh and its Remains』vol.2(1849, ninevehitsremain02laya)/Layard『Discoveries in the Ruins of Nineveh and Babylon』(1853, discoveriesinrui00laya_0)。いずれも0件。対照として melon・cucumber beds は言及あり(Layard 1853 p.96相当)
旅行記は食材目録ではないので、記載が無いことは不在の弱い証拠にとどまる(言及されない普通の野菜はありうる)
19世紀前半〜半ばのイラクでトマトが目に付く作物ではなかったことを示唆する。イラクへのトマト到来(1800–1916年)の下限側を支える材料
1844 言及範囲 アナトリア ・ 印刷料理書 観測
最初の活版オスマン料理書 Melceut-Tabbahin(Mehmed Kamil, イスタンブル 1844)は、トマトを使う料理を複数収める(No.44 Domatizli Kizartma Yahni/Domatiz Dolmassi/Domatiz Pilawi、保存トマトソースの常用)。英訳 Turabi Efendi『Turkish Cookery Book』(London 1864, archive.org b21527830)の全文で逐語確認。オスマン料理の書きことばの面でトマトが常用食材になったことを示す最初期の観測点
1862–1863 言及範囲 サウジアラビア ・ 旅行記 不在確定
Palgrave『Personal Narrative of a Year's Journey through Central and Eastern Arabia (1862-63)』の archive.org 全文(personalnarrativ00palguoft_djvu.txt)を tomato / tomatoes で全文検索して0件。同書はナジュド(リヤド・ハーイル・カスィーム)の町・菜園・食卓を詳述する
紀行は作物目録ではないため、記載が無いことは不在の弱い証拠にとどまる
1860年代の中央アラビアでトマトが目立つ作物でなかったことを示唆。1876年のタブーク(Doughty・半島北西部)との差は、巡礼路・沿岸から内陸への浸透の時間差と読める

トマトの到来が成立を縛った料理 76

トマトが届く前には成り立たなかった料理です。到来年が、その料理の物理的な下限になります。

トマトを使う料理 77

成立年不明 6

成立の下限(いつ以降か)が史料から決まらない料理。年代順には置けないのでここへ分けた ── いちばん古いという意味ではない。 「遅くとも◯年までに」はその年までに存在したことが押さえられているという意味で、その年に成立したという意味ではない。

← ほかの食材を見る