焼味(広東式ロースト) 時期 C起源説 C検証済
確度は2軸: 時期=成立時期の固さ/起源説=発祥譚(説)の固さ(A〜Dの4段階・別々に持つ)。確度とは?→
暴かれた通説あり出典で反証された通説を抱える料理です(真の起源は未確定のことが多い)。
お気に入りリスト
広東・香港の店先に吊るされた燒肉や燒鵝は「千年以上の歴史をもつ」と語られてきた。南宋の都には確かに燒肉も蜜掛けの焼き物も肉を吊るして切り売りする店もあったが、それは江南の記録であって、広東の燒臘店が唐宋にあったことを記した史料は一つも無い。
検証ハイライト 俗説 → 判定 → 根拠
- 主な説
- 焼味(燒味/シウメイ)は豚・鵝・鴨などを吊るして炙り、麦芽糖の掛け汁で皮を飴色に仕上げる広東の焼き物の総称で、その正体は料理そのものより『燒臘店…
- 判定
- 諸説あり(対立説を併記)
- 主な根拠
- 反証宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(明・16世紀初/四庫全書本・維基文庫全文)「燒鵝〔三制、即鵝炙〕一用全體遍挼鹽酒縮砂仁花椒葱,架鍋中燒之,稍熟以香油漸澆,復燒黄香,一塗醬葱椒澆油燒,一塗之以蜜燒」/「燒鴨〔二制〕一用全體以熟油鹽少許遍沃之,腹填花椒葱,架鍋中燒熟…」/「炙鴨」=丸ごと架して焼き、油を掛け、蜜を塗って仕上げる現行の燒鵝・燒鴨技法を記す最古級のレシピ重み5 不明吳自牧『夢粱錄』卷十六(南宋・咸淳十年=1274年成立/維基文庫全文)=臨安の飲食業を店種ごとに列挙する。①分茶酒店の街売り「又有托盤檐架至酒肆中,歌叫買賣者,如炙雞、八焙雞、紅熝雞、脯雞、熝鴨、八糙鵝鴨、白炸春鵝、炙鵝、糟羊蹄…」=鵝・鴨の焼き物は南宋の都市で既に商品化されていた。同店の品書きには蜜を用いた「蜜燒膂肉」、擬製の「小雞假炙鴨」「假熝鴨」も並ぶ。②面食店の下飯「又有下飯,則有焙雞、生熟燒、對燒、燒肉、煎小雞…」=『燒肉』の語が南宋の店の品目として現れる。③肉鋪「杭城內外,肉鋪不知其幾…每日各鋪懸掛成邊豬,不下十余邊…案前操刀者五七人,主顧從便索喚劖切」、豬肉名件に「燒豬」=肉を吊るして客の指す分だけ切り分けて売る小売形態の記録。一方この巻に「燒鵝」「燒鴨」の語は無い重み5
史料が示すこと: 複数の史料が、この通説を支持しない(俗説として退けられる)。 なお「唐宋起源説(『逾千年の歴史』を称する起源譚/退けられるのは広東の業態としての燒味の古さ)」という通説は一次史料・学術文献で退けられている。
3ゲート
- 食材入手ゲート
- 豚肉・ガチョウ・鴨・麦芽糖・醤油・紅麹はいずれも中国在来(豚は黄河流域で前6600年に独立家畜化=Wang et al. 2017/ガチョウは長江下流で前5000年=PNAS 2022)。外来の律速食材はなく、食材ゲートは成立年を縛らない
- 調理技術ゲート
- 叉や鉤で肉を吊るし、炭火の炉(挂炉/明炉)で丸ごと・塊のまま炙る。麦芽糖(+酢)の掛け汁で皮を飴色・パリパリに仕上げる。焼いた肉の商品そのものは南宋『夢粱錄』卷十六(1274)の臨安の店に『燒肉』『蜜燒膂肉』『炙鵝』として既に見え、丸ごと架して焼き最後に蜜を塗る現行技法のレシピは明・宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(16世紀初)の『燒鵝〔三制、即鵝炙〕…一塗之以蜜燒』に記される=技術は近代を待たない
- 場ゲート
- 広州・香港の燒臘(焼味)店という商業業態=店頭に吊るした肉を客の指す分だけ切り分けて売る。順德の料理人が広州へ、清末民初に嶺南人が香港へ移って業態が定着し、戦後に港式燒味として洗練された。律速はこの場(業態)。なお肉を吊るして客の指す分だけ切り分けて売る小売形態そのものは南宋臨安の肉鋪にも記録があり(『夢粱錄』卷十六『每日各鋪懸掛成邊豬…主顧從便索喚劖切』)広東固有ではない。広東固有なのは、焼いた肉(燒肉・燒鵝・燒鴨)を吊るして売る燒臘店という業態の側である
成立年代と食材入手ゲート
食材入手(544年・在地/到来)が律速=物理的な下限。成立年代の帯はそれ以降にある(場ゲートは年に乗らない構造ゲート)。
- 食材入手(流通/在地/加工の経路を内包)
- 太線=律速(最も遅い=成立を縛る)
- 細線=既に充足
- 場ゲートは年に乗らない構造ゲート(図外)
起源説
諸説併記
★主 順德→広州→香港と移った燒臘店業態として近代に成立(個別料理名の初出は南宋1274『燒肉』〜明16世紀初『燒鴨』) C
焼味(燒味/シウメイ)は豚・鵝・鴨などを吊るして炙り、麦芽糖の掛け汁で皮を飴色に仕上げる広東の焼き物の総称で、その正体は料理そのものより『燒臘店』という商業業態=店先に吊るした肉を客の指す分だけ切り分けて売る商いにある。文献初出は個々の料理名ごとに層をなす。(…続きを読む
焼味(燒味/シウメイ)は豚・鵝・鴨などを吊るして炙り、麦芽糖の掛け汁で皮を飴色に仕上げる広東の焼き物の総称で、その正体は料理そのものより『燒臘店』という商業業態=店先に吊るした肉を客の指す分だけ切り分けて売る商いにある。文献初出は個々の料理名ごとに層をなす。(1)『燒肉』は南宋『夢粱錄』卷十六(1274)の面食店の下飯『又有下飯,則有焙雞、生熟燒、對燒、燒肉、煎小雞…』に既に見え、同巻の分茶酒店には蜜を用いた『蜜燒膂肉』、肉鋪には『燒豬』と『每日各鋪懸掛成邊豬…主顧從便索喚劖切』(吊るして切り売りする小売形態)が記録される=『燒肉』の語も蜜掛けの焼き物も吊るし切り売りの商いも、南宋の都市(臨安=江南)に既に揃っていた。(2)『燒鵝』の語の初出級用例は元雜劇=李致遠『都孔目風雨還牢末』第四折(14世紀)。(3)『燒鴨』は明・宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(16世紀初)に『燒鴨〔二制〕…架鍋中燒熟』のレシピがあり、同書の『燒鵝〔三制、即鵝炙〕…一塗之以蜜燒』は丸ごと架して焼き最後に蜜を塗る現行技法の初出級記録(ただし松江華亭=江南の書で広東固有ではない)。(4)広東での定着を示す最古級の一次記録は清・雍正九年(1731)官撰『廣東通志』卷十七の広州城内の街名『燒鵝街』、および民国『清稗類鈔』(1917)の『粵人製粥尤精,有曰滑肉雞粥、燒鴨粥、魚生肉粥者』=18世紀初の広州で『燒鵝』が地名になるほど日常化し、清末〜民国初には燒鴨が粥の具になるほど流通していた。つまり広東の焼味は、遅くとも明代までに中国で確立していた吊るし焼き+蜜(麦芽糖)掛けの技法系譜の上にあり、その広東固有の成立は技法でなく業態の側にある=中文維基は『燒味源於順德』(順德の料理人が広州へ移住して郷土の烹飪技術を持ち込み、清末民初に嶺南人が香港へ移って順德菜が流行、のちに港式燒味が独立)と伝える。食材(豚・鵝・鴨・麦芽糖・醤油・紅麹)はすべて中国在来で外来食材の到来に縛られず、律速は店頭で吊るし焼きを大量に回す商業業態=場ゲート。成立を単一の発祥に還元する一次史料はなく、清末〜民国期の広州で業態が成熟し、戦後香港で港式として洗練された、という窓で捉えるのが妥当。なお明末『型世言』第26回の『現成下飯燒鴨』も清『隨園食單』(1792)の『燒鴨:用雛鴨上叉燒之』も舞台は江南で、清代文献の『燒鴨』の多くは京師・金陵の填鴨=北京ダック(#64)を指す同名異物であり(『清稗類鈔』巻105)、これらを広東の記録と読んではならない。
- 支持 吳自牧『夢粱錄』卷十六(南宋・咸淳十年=1274年成立/維基文庫全文)=臨安の飲食業を店種ごとに列挙する。①分茶酒店の街売り「又有托盤檐架至酒肆中,歌叫買賣者,如炙雞、八焙雞、紅熝雞、脯雞、熝鴨、八糙鵝鴨、白炸春鵝、炙鵝、糟羊蹄…」=鵝・鴨の焼き物は南宋の都市で既に商品化されていた。同店の品書きには蜜を用いた「蜜燒膂肉」、擬製の「小雞假炙鴨」「假熝鴨」も並ぶ。②面食店の下飯「又有下飯,則有焙雞、生熟燒、對燒、燒肉、煎小雞…」=『燒肉』の語が南宋の店の品目として現れる。③肉鋪「杭城內外,肉鋪不知其幾…每日各鋪懸掛成邊豬,不下十余邊…案前操刀者五七人,主顧從便索喚劖切」、豬肉名件に「燒豬」=肉を吊るして客の指す分だけ切り分けて売る小売形態の記録。一方この巻に「燒鵝」「燒鴨」の語は無い 重み5
- 支持 李致遠『都孔目風雨還牢末』(元雜劇・14世紀/維基文庫全文)第四折「【阮小五云】燒鵝倒也好配酒」=『燒鵝』の語の文献初出級用例(元代) 重み5
- 支持 宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(明・16世紀初/四庫全書本・維基文庫全文)「燒鵝〔三制、即鵝炙〕一用全體遍挼鹽酒縮砂仁花椒葱,架鍋中燒之,稍熟以香油漸澆,復燒黄香,一塗醬葱椒澆油燒,一塗之以蜜燒」/「燒鴨〔二制〕一用全體以熟油鹽少許遍沃之,腹填花椒葱,架鍋中燒熟…」/「炙鴨」=丸ごと架して焼き、油を掛け、蜜を塗って仕上げる現行の燒鵝・燒鴨技法を記す最古級のレシピ 重み5
- 支持 郝玉麟等修『廣東通志』卷十七 公署志・武職公署・廣州府(清・雍正九年=1731/四庫全書本・維基文庫全文)「鑲白旗協領〔在燒鵝街〕」=広州城内(八旗駐防区)の街名として『燒鵝街』を記録。18世紀初頭の広州で『燒鵝』の語が地名になるほど定着していたことを示す官撰地方志の記載 重み5
- 言及 陸人龍『型世言』第二十六回(=『三刻拍案驚奇』第二十六回・明崇禎期/維基文庫全文)「姨娘因我是同來熟人,叫我到裡面,與我酒吃,現成下飯燒鴨、熩蹄子、湖頭鯽魚,倒也齊整」=明末の白話小説に見える『燒鴨』の用例。舞台は杭州(錢塘門外・湖頭)で、店で買える出来合いの惣菜として描かれる 重み5
- 言及 袁枚『隨園食單』羽族單(清・乾隆五十七年=1792刊/維基文庫全文)「燒鴨:用雛鴨上叉燒之。馮觀察家廚最精」「燒鵝:杭州燒鵝為人所笑,以其生也。不如家廚自燒為妙」=18世紀末に叉に刺して焼く燒鴨の技法が記録され、燒鵝は杭州の店売り商品として言及される 重み5
- 支持 徐珂『清稗類鈔』飲食類(1917年刊/維基文庫全文・巻106)「粵人製粥尤精,有曰滑肉雞粥、燒鴨粥、魚生肉粥者」=清末〜民国初の広東で燒鴨が粥の具として日常的に流通していた記録 重み5
- 言及 徐珂『清稗類鈔』飲食類(1917年刊/維基文庫全文・巻105)=便宜坊と燒鴨の記載は同巻の別々の条に分かれる(一続きに読まないこと)。①「京師食品」条『填鴨之法,南中不傳。其製法有湯鴨、爬鴨之別,而尤以燒鴨為最,以利刃割其皮,小如錢,而絕不黏肉』=京師の燒鴨(填鴨)の描写。店名は挙げない。②同条の次項『金陵有便宜坊桶子雞,京師米市胡同亦有之,雖與燒鴨並稱,而鴨則不如他肆,惟雞獨勝,色白而味嫩,嚼之,無渣滓』=便宜坊の名はこの桶子雞(鶏)の記載に現れ、鴨は他肆に及ばないと評される。③「京師宴會之肴饌」条(光緒己丑・庚寅=1889〜90年頃の京官の宴)『…致美齋之紅燒魚頭…,便宜坊之燒鴨,某回教館之羊肉,皆適口之品也』=便宜坊の燒鴨はこの別条に記録される。④「小酌之消夜」条『廣州酒樓之肴,有所謂消夜者…冷者為香腸、叉燒、白雞、燒鴨之類』=広州の酒楼の消夜に燒鴨が並ぶ記録 重み5
- 言及 『寒山子詩集』(唐・寒山/四庫全書本・維基文庫全文)「憐底衆生病,餐嘗略不厭。蒸豚揾蒜醬,炙鴨㸃椒鹽」=唐代の詩に鴨の炙り物(炙鴨)が日常の食としてうたわれる 重み5
- 支持 黃氏「燒味的粵語淵源」灼見名家(燒肉=元『貨郎旦』第四折『一簽燒肉』・高文秀『澠池會』楔子、燒鵝=楊顯之『酷寒亭』第三折・李致遠『還牢末』第四折、燒鴨=明『型世言』第26回。個別燒味の語の文献初出を元雜劇=14世紀に同定) 重み2
- 支持 Siu mei — Wikipedia(英語版・燒味=広東の吊るし焼き肉の総称、燒臘店業態、香港での消費頻度) 重み1
- 支持 燒味 — 維基百科(中文版・燒味源於順德/順德の料理人が広州へ、清末民初に嶺南人が香港へ移り港式燒味が成立) 重み1
反証
唐宋起源説(『逾千年の歴史』を称する起源譚/退けられるのは広東の業態としての燒味の古さ) D
『最も早い燒味は唐宋期に現れ、すでに千年以上の歴史をもつ(逾千年歷史)』とする説。香港・台湾の飲食記事や燒臘業界サイトが伝聞形(據說)で流布し、唐宋のどの史料に拠るのかを示した例は一件も無い。ただしこの説を退けるときは射程を切り分ける必要がある。反証されるのは…続きを読む
『最も早い燒味は唐宋期に現れ、すでに千年以上の歴史をもつ(逾千年歷史)』とする説。香港・台湾の飲食記事や燒臘業界サイトが伝聞形(據說)で流布し、唐宋のどの史料に拠るのかを示した例は一件も無い。ただしこの説を退けるときは射程を切り分ける必要がある。反証されるのは《広東固有の商業業態としての燒味が唐宋に成立した》という主張であって、《肉・鵝・鴨を炙った商品そのものの古さ》ではない。(1)反証される部分=唐宋期に『燒味』という広東の料理カテゴリ(店先に吊るした燒肉・燒鵝・燒鴨を客の指す分だけ切り分けて売る燒臘店の商い)が存在したことを示す史料は明示されない。語のうえでも『燒鵝』の初出級用例は元雜劇=李致遠『都孔目風雨還牢末』第四折『燒鵝倒也好配酒』(14世紀)、『燒鴨』のレシピ初出級は明・宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(16世紀初)の『燒鴨〔二制〕一用全體以熟油鹽少許遍沃之,腹填花椒葱,架鍋中燒熟…』で、唐宋には遡らない(従来この位置に挙げていた明末『型世言』第26回は、より早い『竹嶼山房雜部』に置き換わる。同書は『燒鵝〔三制、即鵝炙〕…一塗之以蜜燒』も載せ、丸ごと架して焼き最後に蜜を塗る現行技法の初出級記録でもある)。広東での定着を示す最古級の一次記録も清・雍正九年(1731)『廣東通志』の街名『燒鵝街』、広東の燒鴨は民国『清稗類鈔』(1917)の『粵人製粥…燒鴨粥』まで下る。『千年』を支える史料は無い。(2)反証されない部分=鵝・鴨を炙る商品の古さ。唐『寒山子詩集』は『蒸豚揾蒜醬,炙鴨㸃椒鹽』とうたい、南宋『夢粱錄』卷十六(1274)は臨安の街売り食品に『炙鵝』『白炸春鵝』『八糙鵝鴨』『熝鴨』を並べる=鵝・鴨の焼き物は南宋の都市で既に商品化されていた。さらに同巻の面食店の下飯には『生熟燒、對燒、燒肉』、分茶酒店の品書きには蜜を用いた『蜜燒膂肉』、肉鋪には豬肉名件として『燒豬』が挙がり、『每日各鋪懸掛成邊豬…案前操刀者五七人,主顧從便索喚劖切』=肉を吊るして客の指す分だけ切り分けて売る小売形態まで記録されている。つまり『燒肉』の語も、蜜を使った焼き物も、吊るして切り売りする商いも、南宋の都市には既に揃っていた。(3)それでも本説をD=出典不明・単独説として隔離する理由=これらはいずれも臨安(江南)の記録であり、広東の燒味の記録ではない。『唐宋の都市に焼いた肉の商いがあった』ことと『広東の燒味が唐宋に成立した』ことの間を埋める史料は無く、通説はこの二つを混同したまま『逾千年』と称している。叉焼#526の『周代3000年前の宮廷レシピ』説と同型の、一般技法の古さを個別料理の起源へ横滑りさせる起源譚である。
- 言及 吳自牧『夢粱錄』卷十六(南宋・咸淳十年=1274年成立/維基文庫全文)=臨安の飲食業を店種ごとに列挙する。①分茶酒店の街売り「又有托盤檐架至酒肆中,歌叫買賣者,如炙雞、八焙雞、紅熝雞、脯雞、熝鴨、八糙鵝鴨、白炸春鵝、炙鵝、糟羊蹄…」=鵝・鴨の焼き物は南宋の都市で既に商品化されていた。同店の品書きには蜜を用いた「蜜燒膂肉」、擬製の「小雞假炙鴨」「假熝鴨」も並ぶ。②面食店の下飯「又有下飯,則有焙雞、生熟燒、對燒、燒肉、煎小雞…」=『燒肉』の語が南宋の店の品目として現れる。③肉鋪「杭城內外,肉鋪不知其幾…每日各鋪懸掛成邊豬,不下十余邊…案前操刀者五七人,主顧從便索喚劖切」、豬肉名件に「燒豬」=肉を吊るして客の指す分だけ切り分けて売る小売形態の記録。一方この巻に「燒鵝」「燒鴨」の語は無い 重み5
- 反証 李致遠『都孔目風雨還牢末』(元雜劇・14世紀/維基文庫全文)第四折「【阮小五云】燒鵝倒也好配酒」=『燒鵝』の語の文献初出級用例(元代) 重み5
- 反証 宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(明・16世紀初/四庫全書本・維基文庫全文)「燒鵝〔三制、即鵝炙〕一用全體遍挼鹽酒縮砂仁花椒葱,架鍋中燒之,稍熟以香油漸澆,復燒黄香,一塗醬葱椒澆油燒,一塗之以蜜燒」/「燒鴨〔二制〕一用全體以熟油鹽少許遍沃之,腹填花椒葱,架鍋中燒熟…」/「炙鴨」=丸ごと架して焼き、油を掛け、蜜を塗って仕上げる現行の燒鵝・燒鴨技法を記す最古級のレシピ 重み5
- 反証 郝玉麟等修『廣東通志』卷十七 公署志・武職公署・廣州府(清・雍正九年=1731/四庫全書本・維基文庫全文)「鑲白旗協領〔在燒鵝街〕」=広州城内(八旗駐防区)の街名として『燒鵝街』を記録。18世紀初頭の広州で『燒鵝』の語が地名になるほど定着していたことを示す官撰地方志の記載 重み5
- 言及 『寒山子詩集』(唐・寒山/四庫全書本・維基文庫全文)「憐底衆生病,餐嘗略不厭。蒸豚揾蒜醬,炙鴨㸃椒鹽」=唐代の詩に鴨の炙り物(炙鴨)が日常の食としてうたわれる 重み5
- 反証 黃氏「燒味的粵語淵源」灼見名家(燒肉=元『貨郎旦』第四折『一簽燒肉』・高文秀『澠池會』楔子、燒鵝=楊顯之『酷寒亭』第三折・李致遠『還牢末』第四折、燒鴨=明『型世言』第26回。個別燒味の語の文献初出を元雜劇=14世紀に同定) 重み2
- 言及 飲食文化|港式燒味人氣國際美食 保留傳統風味 加入創新元素 — 星島頭條(『據說最早的燒味出現在唐宋時期、已有逾千年歷史』と唐宋起源を伝聞形で流布。史料の明示なし) 重み2
解説
店先に吊るされた肉
広東や香港の街を歩くと、ガラス越しに艶やかな肉を吊るした店が目に入る。飴色に光る皮の豚(燒肉)、丸ごと吊るされたガチョウ(燒鵝)や鴨(燒鴨)。客が指した分だけを包丁で切り分け、白飯に載せて出す。これらをまとめて焼味(シウメイ/燒味)と呼び、店は燒臘店と呼ばれる。
作り方は共通している。叉や鉤で肉を吊るし、炭火の炉で丸ごと、あるいは塊のまま炙る。焼く前後に麦芽糖と酢を合わせた掛け汁を浴びせると、皮は飴色に色づき、乾いてぱりぱりに焼き上がる。豚もガチョウも鴨も、麦芽糖も醤油も紅麹も、中国の食卓に古くからある素材で、広東の市場ではいつでも手に入った。
焼いて蜜を塗るという手順
肉を丸ごと架けて炙り、仕上げに蜜を塗って艶を出すやり方は、広東だけの工夫ではない。明の宋詡が編んだ『竹嶼山房雜部』養生部卷三(16世紀初)には、燒鵝の作り方が三通り並ぶ。全体に塩と酒、縮砂仁・花椒・葱をもみ込んで架け、半ば焼けたところで香油を少しずつ掛けながら焼き色をつける。三つめのやり方では、そこへ蜜を塗ってもう一度焼く。同じ書には燒鴨の作り方も二通りあり、こちらは腹に花椒と葱を詰め、熱した油と塩を全体にかけて架けて焼く。いま広東の炉で行われている手順の骨格は、この頃までに中国で書きとめられていた。
順德から広州、そして香港へ
技が古いのに対し、焼味という言葉が指しているのは、実のところ一皿の料理というより、店先に肉を吊るし、注文のたびに切り分けて売るという店の形そのものである。広東の焼味を近代の産物にしているのは、この商いの側にある。
その担い手をたどると、広州の南、珠江デルタの順德に行き着く。順德の料理人たちが広州の街へ出て、郷里の焼き物の技を持ち込んだ。清末から民国にかけて、広州の街には肉を吊るした店構えが並ぶ。同じ頃、嶺南の人々が香港へ渡り、順德の料理が香港でも流行し、そこでも店先で肉を吊るす商いが根づいた。戦後の香港ではそれが港式燒味と呼ばれる独自の洗練を遂げ、白飯に焼味を載せた一皿が日々の外食として定着する。
広東で「燒鵝」という語が日常に入っていたことは、清・雍正九年(1731)の官撰『廣東通志』が広州城内の街名として「燒鵝街」を挙げるところに見える。民国の『清稗類鈔』(1917)は「粵人製粥尤精」として滑肉雞粥・燒鴨粥・魚生肉粥を並べ、清末から民国初の広東では燒鴨が粥の具になるほど出回っていた。もっとも、一軒の店や一人の料理人に発祥を帰せるだけの史料はない。焼味は順德に始まると伝えられるが、その伝えの出どころとなる一次史料には行き着かない。清末から民国にかけての広州で商いとして成熟し、戦後の香港で洗練された、という百年ほどの幅で捉えるのが穏当なところである。
検証ストーリー
香港や台湾の飲食記事、燒臘店を紹介する文章には、決まり文句のような一節が現れる。「最も早い燒味は唐宋の頃に現れ、すでに千年以上の歴史をもつ(逾千年歷史)」。ところがどの文章も「據說(言い伝えでは)」という伝聞の形をとり、唐や宋のどの史料にそれが記されているのかは示さない。孫引きが孫引きを呼び、千年という数字だけが独り歩きしている。
まず、退けられる部分から。唐宋の文献に、店先に吊るした燒肉・燒鵝・燒鴨を客の指す分だけ切り分けて売るという広東の商い、つまり燒味という料理の括りが現れることはない。語のうえでも同じで、「燒鵝」の初出級の用例は元の雜劇、李致遠『都孔目風雨還牢末』第四折の「燒鵝倒也好配酒」(14世紀)であり、「燒鴨」の作り方が書きとめられるのは明・宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(16世紀初)の「燒鴨〔二制〕」まで下る。広東での定着を示す最も古い級の一次記録は、清・雍正九年(1731)の『廣東通志』に見える街名「燒鵝街」、そして民国『清稗類鈔』(1917)の「燒鴨粥」である。千年という数字を支える史料はどこにも無い。
次に、退けられない部分。鵝や鴨や豚を炙った商品そのものは、確かに古い。唐の『寒山子詩集』は「蒸豚揾蒜醬,炙鴨㸃椒鹽」とうたい、鴨の炙り物に山椒塩を添える食べ方が日常の光景として詠まれている。南宋の臨安を店種ごとに書き並べた吳自牧『夢粱錄』卷十六(1274)にいたっては、いっそう近い。分茶酒店の街売りには「炙鵝」「白炸春鵝」「八糙鵝鴨」「熝鴨」が並び、その品書きには蜜を用いた「蜜燒膂肉」がある。面食店の下飯には「生熟燒、對燒、燒肉」——「燒肉」の語が、南宋の店の品目として現れる。さらに肉鋪の条には「每日各鋪懸掛成邊豬,不下十余邊…案前操刀者五七人,主顧從便索喚劖切」とあり、豬肉名件には「燒豬」が挙がる。半身の豚を毎日店先に吊るし、板前が包丁を構えて客の指す分だけ切り分ける——今日の燒臘店とほとんど変わらない光景が、十三世紀の都にはあった。
それでも唐宋起源説が立たないのは、これらがすべて臨安、すなわち江南の記録だからである。燒肉という語も、蜜を掛けた焼き物も、肉を吊るして切り売りする商いも、南宋の都には揃っていた。しかし広州や香港の燒臘店という業態がそこから続いていることを記した史料は、唐宋期には見あたらない。「唐宋の都市に焼いた肉の商いがあった」ことと「広東の燒味が唐宋に成立した」ことは別で、通説はその二つを重ねたまま「逾千年」と称している。一般に古い技法の年代を、個別の郷土料理の発祥へそのまま滑らせた由緒書きである。
千年説の射程を切り詰めたあとに残るのは、清末から戦後にかけての百年ほどの幅である。焼味が順德に始まるという伝えも、広州のどの店がこれを商いに仕立てたのかも、確かな一次史料には行き着かない。はっきりしているのは、順德から広州へ、広州から香港へと担い手が移っていった道筋と、そのどこかで焼味が今の形になったということだけである。
検証ログ 追記専用の監査証跡
| 日付 | 結果 | 確度 | 主張 / 出典 | 更新者 |
|---|---|---|---|---|
| 2026-07-15 | None | —→— |
網羅リスト取り込み時の代表出典(研磨の出発点)
|
PDM |
| 2026-07-26 | 反証 | 未入力→D |
焼味は唐宋期に現れ『逾千年』の歴史をもつ(星島頭條ほか飲食記事・燒臘業界が伝聞形で流布)
|
polisher-1 |
| 2026-07-26 | 支持 | 未入力→C | polisher-1 | |
| 2026-07-26 | 支持 | 未入力→C |
料理名『焼味(siu mei/燒味)』の実在確認:英語版 Wikipedia に Siu mei の独立項目、中文維基に『燒味』項目が存在し、広東・香港の吊るし焼き肉の総称として現用。別称は燒臘(siu laap)
|
polisher-1 |
| 2026-08-01 | 反証 | D→D |
唐宋起源説(『最も早い燒味は唐宋期に現れ逾千年の歴史をもつ』)の射程を史料で限定した。従来この説の反証根拠に挙げていた『燒鴨は明「型世言」第26回が初出』は、より早い明・宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(16世紀初)の『燒鴨〔二制〕一用全體以熟油鹽少許遍沃之,腹填花椒葱,架鍋中燒熟…』へ上書きされる。同書の『燒鵝〔三制、即鵝炙〕…一塗之以蜜燒』は丸ごと架して焼き最後に蜜を塗る現行技法の初出級レシピでもある(維基文庫の四庫全書本原文で直接確認。蜜を用いるのは燒鵝の第三制のみで燒鴨・炙鴨の条には無い)
|
polisher-1 |
| 2026-08-01 | 不明 | D→D |
『燒肉・燒鵝・燒鴨はいずれも唐宋には遡らない』という従来の反証文は、語については正しいが料理としては強すぎるので射程を限定した。維基文庫の原文(action=raw)を直接点検した結果、南宋『夢粱錄』卷十六(1274)は臨安の飲食業を店種ごとに列挙し、(a)分茶酒店の街売りに『炙雞…熝鴨、八糙鵝鴨、白炸春鵝、炙鵝』=鵝・鴨の焼き物は南宋の都市で既に商品化、(b)同店の品書きに蜜を用いた『蜜燒膂肉』、(c)面食店の下飯に『又有下飯,則有焙雞、生熟燒、對燒、燒肉、煎小雞…』=『燒肉』の語が南宋の店の品目として現れる、(d)肉鋪に『每日各鋪懸掛成邊豬,不下十余邊…案前操刀者五七人,主顧從便索喚劖切』と豬肉名件『燒豬』=肉を吊るして客の指す分だけ切り分けて売る小売形態、が揃う。よって『燒肉』の語・蜜掛けの焼き物・吊るし切り売りの商いは、いずれも南宋の都市(臨安=江南)に既に存在した。退けられるのは《広東固有の商業業態としての燒味が唐宋に成立した》という主張であって《鵝・鴨・豚を炙る商品の古さ》ではない
|
polisher-1 |
| 2026-08-01 | 支持 | C→C | polisher-1 |
構成素材
この料理を構成する素材の成立史へ。
関連する料理
系統 家族・前史・変種
主役食材を共有(豚肉)
- とんかつ日本説C
- タコス・アル・パストールメキシコ説B
- フェイジョアーダブラジル説B
- BBQリブ(バーベキュー・リブ)米国南部説C
- 小籠包上海(中国・南翔)説C
- カリーヴルストドイツ・ベルリン説B
- 二度調理の豚肉再加熱(回鍋肉の前史)中国(四川)説C
- ラープラオス・イサーン地方説C
- チチャロンペルー/中南米説B
- チチャロン(メキシコ)メキシコ説B
- チチャロン(コロンビア)コロンビア説B
- 包子中国説C
- コチニータ・ピビルメキシコ・ユカタン半島説C
- レチョンフィリピン(セブ等)説C
- サーロウクライナ説C
- バクテー(肉骨茶)シンガポール説C
- ゴロンカポーランド説C
- ジャイロ(ギリシャ)ギリシャ説B
- アイスバインドイツ・ベルリン説C
- シュヴァイネハクセドイツ・バイエルン説C
- 日本式回鍋肉日本説B
- マンチャマンテレスメキシコ・プエブラ説C
- ペルニルプエルトリコ説C
- チョリパンアルゼンチン(ラプラタ地域)説C
- 叉焼中国・広東省説C
- プルドポーク米国南部説B
- カルニータスメキシコ説B
- アロジャード・デ・チャンチョチリ説B
- ブティファラキューバ説B
- カラプルクラペルー説B
- クランスカ・クロバサスロベニア説B
- チャモロ・ポークソーセージグアム説B
- 叉焼包中国(広東・香港)説C
- フリタンガコロンビア説B
- アヤカベネズエラ説B
- ユット・マット・ガーデボーネンルクセンブルク説C
- カツ丼日本説C
- ケバプチェブルガリア説C
- コントソウヴリギリシャ説C
- チェーオーミャンマー説C
- メディアノーチェCuba説C
- メディスターソーセージデンマーク説B
- モルシージャアルゼンチン説B
- ムツヴァディジョージア説C
- ナカタマルニカラグア説B
- サイウア(ラオス)説C
- サイウア(タイ・チェンマイ)説C
- 湯包(タンパオ)中国(江蘇)説C
- トヘズモブラジル説B
- ホールホッグ・バーベキュー米国(ノースカロライナ州)説B
- オスマンの炒め・保存肉(kavurma・トマトとピーマン以前)ブルガリア説B
- 室蘭やきとり日本・室蘭説C