食材から辿る / 新大陸(コロンブス交換)

パプリカ 素材 時期 B検証済

成立年代 前4000〜

パプリカが、いつ・どこで食べ物として成立し、各地へどう伝わったかをまとめています。 原産地での成立を3ゲート(食材入手・調理技術・場)で示し、その後の各地への到来を記録でたどります。

3ゲート

食材入手ゲート
トウガラシ(Capsicum annuum)の栽培化(入手)約前4000年・メキシコ/メソアメリカ(野生採取は前6000年以前)
調理技術ゲート
果実の乾燥・製粉(パプリカ粉)/甘味・非辛味品種の選抜
場ゲート
メソアメリカでの食用栽培成立(甘味粉パプリカ文化はオスマン経由ハンガリー等16~19世紀の派生)

パプリカはどこから広がったか

パプリカと呼ばれる赤い粉と、その材料になる肉厚の甘い実は、どちらもトウガラシと同じ一つの種(Capsicum annuum)から来ている。原産地は中央アメリカで、メキシコ中東部で6500年以上前に栽培化された。言語学、生態、考古、遺伝という四つの筋の証拠が、この一帯を栽培化の場所として指している(クラフトらの2014年の研究)。ただし、そこで育てられていたのは辛い実である。ハンガリーの台所を思わせる甘い粉パプリカは、この段階にはまだ存在しない。

二つの経路で旧大陸へ

大西洋を渡ったのはコロンブス以後で、旧大陸への入り口は二つあった。ひとつは大西洋に面したスペインとポルトガルで、16世紀のうちにイベリア半島で栽培が始まる。エストレマドゥーラの修道院で育てられた実は、やがて燻して挽く土地の粉——ピメントン——になった。

もうひとつがオスマン帝国の経路である。地中海の東岸を経て、16世紀の後半にはバルカン半島へ、16世紀から17世紀にかけてハンガリーへ入った。ヨーロッパの内陸を東から回り込んだこの流れが、のちのパプリカ文化をつくる。

辛くない実を選び出す

ハンガリーで起きたのは、伝来ではなく選抜だった。カロチャとセゲドの農民は、辛みの弱い実を選んでは種を採るという作業を代々続け、辛さを抜いた甘い品種をつくり出した。そして乾かして挽き、粉として使う流儀を定着させた。粉にすれば色が濃く出て、油に溶けて料理全体を赤く染める。実のまま使うのとは別の素材である。

同じことは西でも別の速さで進んだ。甘みのある大きな実——ピーマン、ベルペッパーの類——が食用として広まるのは、南フランスでは18世紀にまで下る。辛い実として旧大陸に届いた植物が、辛くない野菜と赤い粉という二つの姿を持つまでには、それだけの選抜の時間が要った。

メキシコの畑からハンガリーの製粉所まで、この植物は種としては一つのまま、人が選ぶものを変えることで別の素材になったのである。

各地への伝来 7

各地で食べ物として定着した時期の記録です。地域によっては、それに先立つ物理的な到来(観賞用など、食用より前の前史)が含まれることがあります。

  • 前6000〜前4000頃 メソアメリカ 在来在地栽培
  • 1493〜1600頃 スペイン 新大陸交換在地栽培
  • 1500〜1600頃 ポルトガル 新大陸交換
  • 1526〜1700頃 ハンガリー 交易路
  • 1526〜1600頃 バルカン半島 交易路
  • 1540〜1650頃 レバント 新大陸交換
  • 1700〜1790頃 プロヴァンス 新大陸交換

パプリカの到来が成立を縛った料理 15

パプリカが届く前には成り立たなかった料理です。到来年が、その料理の物理的な下限になります。

パプリカを使う料理 13

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