ものがたり / 食材前夜
毒を疑われた芋 ―― ジャガイモが旧世界の主食になり各地の名物を生むまで
フライドポテトもポテトチップスも、ジャガイモを搗き混ぜた素朴な家庭料理も、いかにも昔からその土地にある味に見える。だがジャガイモは新大陸アンデス原産の作物で、旧世界の港に着いてからも長いあいだ、ナス科ゆえに毒を疑われ、家畜の飼料や庭を飾る草として食卓の外に置かれていた。芋が主食となり、各地の名物を生むのは、驚くほど新しい。
ジャガイモが旧世界に届く前から、各地の食卓はそれぞれの主食で満たされていた。北ヨーロッパではライ麦や大麦のパン、カブや豆、粥が腹を満たし、地中海では小麦のパンとオリーブが日々の糧だった。東欧の農村では雑穀と豆が食卓の芯にあった。デンプン質の主食の座には、まだ芋の入る余地がなかった。いっぽう大西洋の向こう、南米アンデスの高地では、ジャガイモははるか昔から人々を養う土台の作物だった。標高の高い痩せた土地でもよく実り、凍らせて乾かして保存する知恵とともに、アンデスの主食としてとうに根づいていた。旧世界が知らなかっただけで、芋はもう一方の半球で数千年の歴史を持つ主食だったのである。
その芋を旧世界へ運んだのは、大西洋を渡ったスペインの船である。十六世紀後半にヨーロッパへ持ち込まれたジャガイモは、しかしすぐには食卓に上らなかった。見慣れぬ塊茎はナス科に属し、同じ科の有毒な草を思わせたことから毒を疑われ、土の中で育つ姿を不吉とみる声すらあった。長いあいだ芋は、植物園の珍種や家畜の飼料として扱われ、飢饉のときにやむなく口にする非常食にとどまった。潮目が変わるのは十八世紀である。度重なる飢饉と戦乱のなかで、穀物が凶作でも土の下で実る芋の値打ちが見直された。プロイセンではフリードリヒ二世が作付けを促し、フランスではパルマンティエが芋食の普及に奔走した。飢えをしのぐ作物として、ジャガイモはようやく畑と食卓に受け入れられていく。地域ごとに芋が根づいた年は、はっきりと後代に寄る。西ヨーロッパの食卓に定着するのは千七百五十年ごろ、スウェーデンは千七百七十年ごろ、ポルトガルは千七百八十年ごろ、ベラルーシは千八百二十年ごろ、ロシアや北インドでは千八百五十年ごろ、そしてケニアの高地に届くのは千九百年前後のことだった。芋が土地の常食になって、ようやくそれを主役にした料理の生まれる余地ができた。
芋を得た各地では、それぞれの街角や家庭で名物が立ち上がっていく。西ヨーロッパでは十八世紀末、パリのポンヌフ橋のたもとで露天商が芋を切って揚げ、フレンチフライの姿がしだいに整った。千七百九十四/九十五年の料理書に薄切りを揚げた記録が残り、棒状の姿がパリで定まるのは千八百四十年ごろである。オランダでは芋と青物を搗き混ぜたスタンポットが、東欧の農村ではすりおろした芋を焼くドラニキが、芋の主食化とともに日常の一皿になった。北欧ではアンチョビと芋を重ねて焼くヤンソンの誘惑が、ポルトガルでは干鱈と細切りの芋を炒めたバカリャウ・ア・ブラースが、イングランドでは残り肉をマッシュポテトで覆って焼くシェパーズパイが、それぞれの食卓に加わっていった。
海を越えた新大陸でも、芋は新しい料理を生んだ。十九世紀半ばの米国では、紙のように薄く切って揚げたポテトチップスがスナックとして広まった。二十世紀初頭のニューヨークでは、冷たいポロネギと芋のスープ、ヴィシソワーズが高級ホテルの厨房で結晶した。二十世紀半ばのケベックでは、揚げた芋にチーズカードとグレービーをかけたプーティンがドライブイン食堂から広がり、カリフォルニアではブリトーに芋を巻き込んだ一皿が現れた。
芋の足取りが遅れた土地では、名物の生まれる時期も後ろにずれる。イランではジャガイモとトマトを抱えた壺煮込みのディジ(アブグーシュ)が十九世紀後半に形をなし、インドの街頭ではアルー・カチョリやパニプリ、パヴバジ、ムンバイのヴァダパオが芋を主役に育った。ロシアではオリヴィエサラダやオクローシカが芋とともに姿を変え、ケニアの高地では、キクユの人々の搗き混ぜ料理ムキモが、新大陸の芋とトウモロコシと豆で現在の姿になった。パキスタンのシンディ・ビリヤニやスリランカのパティスにも、芋は溶けこんでいる。
そして、いま永遠の伝統のように語られる芋の名物ほど、実は驚くほど新しく、しばしば来歴を飾る物語をまとっている。ベルギーがフレンチフライの起源を十七世紀に求める語りは、根拠とされる千七百八十一年の家族文書を食物史家が読み解くと、たっぷりの油で揚げる棒状の芋ではなく、少量の油で薄切りを焼きつける別の調理を指していた。ポテトチップスを千八百五十三年にサラトガの料理人ジョージ・クラムが偶然発明したという逸話も、薄切り揚げ芋を塩とともに記す料理書が千八百十〜二十年代からあり、年代が合わない。フランスの名を負うヴィシソワーズは、生みの親自身の証言と同時代のフランスの料理誌が、そろってニューヨーク生まれの料理だと記している。ベラルーシ固有と語られるドラニキは、名からして「すりおろす」という調理法そのものを指し、ウクライナやポーランド、リトアニア、ユダヤの家庭にまで同じ料理が並んでいた。プーティンにいたっては、二つの町が発祥を争ったまま、単一の発明者には帰せないというのが食物史のたどりついた結論である。
こうして並べると、「ジャガイモは昔からこの土地にあった」「この芋料理は太古からの伝統だ」という思い込みが、いかに新しい記憶違いかがよく見える。毒を疑われて庭に飾られた塊茎が、飢饉をしのぐ作物として畑に受け入れられ、わずか二世紀ほどで旧世界の主食となり、各地の食卓に名物を刻んだ。祖を古く見せかける物語よりも、アンデスから来た一個の芋が土地ごとに根づいていった順番をたどるほうが、ずっと確かで面白い。