ものがたり / 食材前夜

新大陸の赤 ―― 唐辛子が旧世界を染めた三つの幕

食材前夜 登場する料理 19品

キムチも麻婆豆腐もトムヤムクンも、あの赤くて辛い一皿はいかにも太古からの伝統に見える。だが唐辛子は新大陸の作物で、コロンブスの交換のあとに海を渡ってきた新参者だった。三つの大陸の食卓が赤く染まるのは早くて16世紀、内陸に至ってはもっと後のことである。

唐辛子が旧世界に届く前から、辛味そのものは各地の食卓にあった。四川には花椒が古くから根づき、舌を痺れさせる独特の刺激で料理を引き締めていた。西アフリカのメレゲッタ胡椒(グレインズ・オブ・パラダイス)は土地に自生する辛香の実で、スープに深い温かみを与えていた。インドから東南アジアにかけては黒胡椒やジャワ長胡椒(cabya)、生姜が辛味と香りを担い、インドネシアで「サンバル」と呼ばれたのも本来はこうした在来の香辛料を擂り潰したペーストのことだった。当時の朝鮮のキムチは唐辛子を含まない白い漬物で、エチオピアの宮廷では黒胡椒こそが最も珍重される献上品だった。宣教師アルヴァレス(1540年刊)のエチオピア見聞録に唐辛子は一言も出てこない。旧世界には旧世界の辛味の地図があり、そこに赤はまだ無かった。

新大陸原産の唐辛子を旧世界へ運んだのは、大西洋とインド洋を結んだポルトガルの船である。実はまず海沿いの港町に荷揚げされ、そこから食卓へ広がった。ゴアには16世紀前半に届き、ポルトガル人の肉のワイン・ニンニク漬け carne de vinha d'alhos が、この赤い実を得てヴィンダルーへと姿を変えた。1511年にマラッカが陥ちると唐辛子は程なくマレー諸島へ渡り、1520年ごろにはスマトラで乾式煮込みのルンダンを、在来ペーストのサンバルを、それぞれ唐辛子を主役とする赤い料理へと組み替えていく。1540年ごろにはマグリブへ及び、チュニジアのハリッサやモロッコのメルゲーズが辛い現行の姿を得た。16世紀半ばには唐辛子はタイのトムヤムクン、スリランカの削りココナッツの和え物ポル・サンボル、モザンビークのピリピリチキン、西アフリカのペペスープを次々と赤く染めていった。エチオピア高原に届いたのは1600年ごろで、イエズス会士パエスは『エチオピア史』(1622年)に「二年前にインドからチリ種が届き、いまや豊富で皆が好んでいる」と、その目新しさを目撃のまま書き留めている。この唐辛子入り香辛料ベルベレを核に、赤いドロワットやシロが立ち上がった。

ところが唐辛子は、海から遠い内陸へは足取り重く進んだ。ここに時間の段差が生まれる。朝鮮半島に唐辛子が伝わったのは1600年前後(李睟光『芝峰類説』1614年が言及)だが、赤いキムチとして定着するのは18世紀から19世紀にかけてで、それまでキムチは長く白いままだった。混ぜ飯のビビンバが赤いコチュジャンをまとうのも、同じくこの時期より後にあたる。四川盆地はさらに遅く、唐辛子が行きわたるのは18世紀半ば、およそ1749年ごろとされる(歴史家ブライアン・ドットの研究)。それまで四川の辛さは花椒が担ってきた。今では永遠の伝統のように感じられる四川の激辛も、麻婆豆腐は1862年ごろ、回鍋肉や担々麺、宮保鶏丁もいずれも清末以降の、思いのほか若い料理である。唐辛子の里帰りに近いのがテキサスのチリコンカンで、19世紀後半のサンアントニオで形を得た。もっとも新しいのは韓国のトッポッキで、私たちの知る赤い餅は1953年、ソウル新堂洞の馬福林が広めたものだ。それ以前のトッポッキは醤油味だった。

こうして並べてみると、「これらの赤い料理は太古の伝統だ」「唐辛子は昔からこの土地にあった」という思い込みが、いかに新しい記憶違いかがよく見える。パエスが1622年に記した「二年前に届いた」の一行、アルヴァレスが1540年に唐辛子へ触れなかった沈黙、朝鮮で17世紀初頭に初めて名が挙がったこと、四川へ18世紀まで届かなかったこと。史料はどれも、赤が旧世界にとって外から来た若い色であることを指し示している。一粒の新大陸の実が、数世紀のうちに三つの大陸の食卓を染め替えた。まず海沿いから、遅れて内陸へ。祖を古く見せかける物語よりも、この染まり方の順番をたどるほうが、ずっと確かで面白い。

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