食材から辿る / 在来

ヒヨコ豆 素材 時期 B検証済

成立年代 前7500〜

ヒヨコ豆が、いつ・どこで食べ物として成立し、各地へどう伝わったかをまとめています。 原産地での成立を3ゲート(食材入手・調理技術・場)で示し、その後の各地への到来を記録でたどります。

3ゲート

食材入手ゲート
ヒヨコ豆(Cicer arietinum)の栽培化(入手)=肥沃な三日月地帯・南東アナトリア(+隣接シリア)・約前8000年(新石器)
調理技術ゲート
加熱調理(煮る)による豆の可食化
場ゲート
近東(肥沃な三日月地帯)での食用成立

ヒヨコ豆はどこから広がったか

ヒヨコ豆(Cicer arietinum)は、西アジアで人が育てはじめた最初の作物の一群に属している。野生の祖先は南東アナトリアの山地に生える一年草(Cicer reticulatum)で、この草の分布はきわめて狭い。今日世界じゅうで食べられている豆が、トルコ南東部のごく限られた斜面から出てきたことになる。

栽培の最も古い証拠は、北西シリアのテル・エル・ケルクにある。新石器の早い層から、ヒヨコ豆の遺存が百三十八点まとまって見つかっており、その層の年代は紀元前8750年から前8290年にあたる(タンノとウィルコックスの2006年の研究)。同じころ、隣接する南東アナトリアでも紀元前8000年から前7000年ごろの栽培が確かめられている。麦と一緒に畑に入った、いちばん古い豆のひとつである。

乾かせば運べる

豆という食材の強みは、乾かせば何年ももち、軽く、割れないことにある。ヒヨコ豆はこの性質のおかげで、麦の広がる先へ、ほぼどこへでも付いていった。南アジアには紀元前2500年ごろまでに達し、インド亜大陸ではやがて主要な豆になる。アフリカでは紀元前1500年ごろにエチオピア高原へ入り、この高地の農業に組み込まれた。西へは地中海を伝い、紀元前2世紀から紀元1世紀ごろのイベリア半島には、遠方から来た作物の一つとしてヒヨコ豆が現れている。

食べるには煮なければならない。硬い豆を水に浸し、長く煮て柔らかくする——この単純な手間だけが要求される代わりに、乾いた豆は畑と台所のあいだをいくらでも待つことができた。

料理書の章になり、屋台の皿になる

13世紀のマグリブでは、ヒヨコ豆はすでに料理書の一章を占めている。アンダルス出身でチュニスに拠ったイブン・ラズィーン・アッ=トゥジービーの料理書には、ソラマメとヒヨコ豆のための章が立てられており、この豆が北アフリカの食の中心にあったことが分かる。

さらに遠くへは、人の移動が運んだ。1845年以後、インドから年季契約の労働者としてトリニダード島へ渡った人びとは、故郷の豆料理を持ち込んだ。煮て香辛料で和えたヒヨコ豆を、揚げた薄いパンで挟む屋台の食べものは、そこで島の朝食になっていく。南東アナトリアの斜面に生えていた一年草は、こうして九千年をかけて、カリブ海の路上まで届いたのである。

各地への伝来 7

各地で食べ物として定着した時期の記録です。地域によっては、それに先立つ物理的な到来(観賞用など、食用より前の前史)が含まれることがあります。

  • 前8750〜前8290頃 レバント 在来
  • 前8000〜前7000頃 アナトリア 在来在地栽培
  • 前2500頃 南アジア 在来在地栽培
  • 前1500頃 エチオピア 在来
  • 前200〜100頃 スペイン 在来
  • 1250〜1293頃 マグリブ 在来在地栽培
  • 1845〜1917頃 トリニダード・トバゴ 植民地交易

ヒヨコ豆の到来が成立を縛った料理 4

ヒヨコ豆が届く前には成り立たなかった料理です。到来年が、その料理の物理的な下限になります。

成立年不明 1

成立の下限(いつ以降か)が史料から決まらない料理。年代順には置けないのでここへ分けた ── いちばん古いという意味ではない。この食材の到来が下限を与えることは変わらないが、料理の側の成立年はまだ決まっていない。 「遅くとも◯年までに」はその年までに存在したことが押さえられているという意味で、その年に成立したという意味ではない。

  • パコラ インド 遅くとも 1130 年までに

ヒヨコ豆を使う料理 20

成立年不明 3

成立の下限(いつ以降か)が史料から決まらない料理。年代順には置けないのでここへ分けた ── いちばん古いという意味ではない。 「遅くとも◯年までに」はその年までに存在したことが押さえられているという意味で、その年に成立したという意味ではない。

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