ものがたり / 伝播紀行

小麦の皮に包まれた一族 ―― 草原と交易路が結んだ、本家なきダンプリング兄弟たち

伝播紀行 登場する料理 16品

ポーランドのピエロギから広州の雲呑まで、ユーラシアの各地が、小麦の薄い皮にひき肉を包んで食べてきた。ペリメニ、モモ、マンティ、包子、餃子——どれもよく似た兄弟に見え、土地ごとに「うちが元祖」「うちの固有料理だ」という誇らしい起源話がまとわりつく。だが、この大家族に本家はいない。草原と交易路の上で分かれ、あるいは別々の土地で並行して育った、対等な兄弟たちの物語である。

西はバルト海のほとり、東は華南の港町まで。ユーラシアを横断する帯の上に、同じ輪郭を持つ料理が点々と並んでいる。小麦を練った薄い皮で、ひき肉と香味野菜を包む。茹でるか、蒸すか、揚げるか——仕上げは土地によって違っても、手のひらの上で皮を折り、餡を閉じ込めるしぐさはよく似ている。ピエロギ、ペリメニ、ヴァレーニキ、ヒンカリ、モモ、マンティ、マントゥ、ボーズ、バンシュ、ホーショール、チェブレキ、ベリャシ、クックル、包子、餃子、雲呑。名前を並べるだけで、大陸の端から端までが一続きに見えてくる。

この一族を結ぶ糸の一本は、名前そのものにある。トルコのマンティ、中央アジアのマントゥ、朝鮮のマンドゥ、そして漢語の饅頭(マントウ)——mant- という音が、ユーラシアの中央を貫いている。モンゴルのボーズは中国語の包子(バオズ)から、バンシュは扁食(ビェンシー)から、ホーショールは火烧儿(フオシャオ)から借りた名だ。粉食の技法と一緒に、それを呼ぶ言葉も旅をした。こうした借用語の連なりが分布する範囲は、モンゴル帝国が版図としたおおよその輪郭と重なる。元朝の宮廷でまとめられた食の書『飲膳正要』(1330年)には、羊のひき肉を小麦の皮で包んで蒸す料理が記されていて、遅くともその頃には、この様式が交易路の東側で確かな形をとっていたことがわかる。

ただし、「すべては中国から広がった」という筋書きは単純にすぎる。近年の言語学は、名前の流れをむしろ逆に読む。中央アジアのテュルク系の言葉にあった manti が東へ渡って漢語の mantou になった、という向きだ。饅頭という語は古典漢語のなかでそれほど古くまでは遡れない。新疆トルファンのアスターナ古墓群からは、五世紀から七世紀の実物の餃子が小麦の皮ごと出土していて、シルクロードの西域に、この包み物の古い層が確かにあったことを物証が語っている。祖をひとつの国に定めようとするほど、証拠はいくつもの土地へと散っていく。

そして、この一族のすべてが東から来た借り物というわけでもない。ポーランドのピエロギは、名の由来をたどると在来のスラヴ語 pir(饗宴)に根ざす。ウクライナのヴァレーニキは「茹でる」を意味する variti から来た、土地の言葉そのものだ。シベリアのペリメニは、ウラルの先住民の言葉で「耳のパン」を意味する pel'nyan に遡る。これらの名は中国語を経由していない。皮を茹でて具を包むという発想は、ペルシア語の josh(茹でる)+para(片)に由来し、十三世紀のアラブの料理書にすでに載る「茹で小団子」の系譜としても、中央アジアからコーカサス、中東へと広がっていた。クリミア・タタールのクックルは、その茹で小団子の一員である。東の粉食、ペルシアからテュルクの茹で団子、そして各地の在来の生地料理——いくつもの深い根が、ひとつの見慣れた家族の姿へと合流している。

だからこそ、兄弟たちの顔立ちは驚くほど違う。ジョージアの山岳で生まれたヒンカリは、皮を分厚くひだ寄せにして肉汁を袋のように閉じ込め、てっぺんの結び目を残して食べる。チベットとネパールのモモは、高地の大麦やヤクの肉に土地の香辛料をきかせた。アナトリアのマンティは小指の先ほどに小さく作り、ヨーグルトをかけて供す。モンゴルでは、同じ小麦の皮と羊肉の餡から、蒸せばボーズ、揚げればホーショール、小さく茹でればバンシュと、三つの姿が並び立つ。ヴォルガのタタールはよく似た揚げパイをベリャシと呼び、クリミアのチェブレキは薄い皮を油で大きく揚げ、広州の雲呑麺は皮を薄くのばしてエビを包み、鹸水の細麺と合わせた。どれかが標準で、他が崩れた変種なのではない。土地ごとの火加減と水加減、手に入る肉と香りが、それぞれの指紋を刻んだのである。

これだけ広く愛された一族だから、行く先々で、その土地ならではの誇らしい起源話が生まれた。そしてその多くは、有名な古人や輝かしい古さに料理を結びつける物語である。

中国では、三国時代の軍師・諸葛亮が南征の途上、川の神への生贄の首の代わりに小麦生地で肉を包んで「饅頭」と名づけた、という伝説が語られてきた。だが、この逸話を諸葛亮に結びつける最も古い記録は、出来事から九百年ほども後の南宋の書物で、同時代の裏づけはどこにもない。餃子にも、後漢の名医・張仲景が凍傷に苦しむ人々のために薬草入りの耳形の包み物を作った、という起源譚がある。ところが、この伝説が説く薬膳には唐辛子が入っている。唐辛子が中国に渡るのは新大陸との交流が始まった十六世紀以降で、二世紀の張仲景の食卓には影も形もなかった。物語は自らのなかに、生まれるよりずっと後の食材を抱え込んでいる。

同じことが、大陸のあちこちで起きている。ポーランドには、ドミニコ会の聖ヒヤツィントが一二四〇年のモンゴル侵攻のさなか、飢えた民にピエロギを配ったという言い伝えがある。しかし彼の生涯を記した十四世紀の聖人伝は、ピエロギに一言も触れない。ネパールでは七世紀の王女がモモを伝えたと語られ、クリミアではチェブレキをチンギス・ハンの兵が熱した盾の上で焼いたのが始まりだと語られる——本来は油で揚げる料理を、である。ジョージアのヒンカリには「神官の妻ヒンダが作った」「モンゴルのハンの頭にちなむ」という語源話があるが、この名はもともと北コーカサスのアヴァル語からの借用で、人名や「汗」への結びつけは後から足された民間語源だ。クリミアのクックルを花嫁の婚礼儀礼と結んで「クリミア固有の発明」とする話も、同じ形の茹で小団子がテュルクからペルシアの世界に広く分布する事実の前では、ひとつの土地の発明とは言いきれない。

なかでも根強いのが、「ピエロギはマルコ・ポーロが中国から持ち帰った」という類の、東から西への一本道の伝来譚である。だが、ピエロギの名は在来のスラヴ語で説明がつき、中国語から借りた跡はない。これらの物語に共通するのは、料理の誕生をひとりの英雄や、ひとつの古い王朝、ひとつの土地に縛りつけようとする欲求だ。ある料理が文献に最初に現れた年は、遅くともその頃には存在したという下限を教えてくれるだけで、生まれた瞬間を指すわけではない。最初の記録と発祥を取り違えると、こうした誇りの物語はいくらでも古く、いくらでも英雄的になれてしまう。

小麦の皮にひき肉を包むというひとつの発想は、草原の遊牧民に運ばれ、交易路の宿場で分かち合われ、それぞれの土地の言葉と火と香りのなかで、別々の料理へと育っていった。東の粉食から名を借りた兄弟もいれば、在来の言葉で自分の名を得た兄弟もいる。どれかが本家で、他がその子だというのではない。祖の座を争う物語よりも、ひとつの手のしぐさが大陸を横切って、十六の違う顔になっていった道筋のほうが、ずっと確かで、ずっと面白い。

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