ものがたり / 食材前夜
オスマンが運んだ赤い粉 ―― パプリカが中欧とバルカンの『国民の味』になるまでの三幕
グヤーシュの真っ赤な煮込みも、セルビアの秋のアイヴァルも、いかにも土地に根づいた太古の味に見える。だがその赤を作る粉パプリカは新大陸生まれの新参者で、オスマンの交易路をさかのぼって中欧に届いたのは16世紀、料理の顔になったのは19世紀のことだった。
パプリカが中欧とバルカンの食卓に加わる前から、これらの料理の骨格をなす素材は、その土地にあった。ハンガリー大平原(プスタ)の牛飼いは、大鍋で肉と玉ねぎを煮た携行食を古くから食べていた。グヤーシュという名からして「牛飼い」を意味する。味付けを担ったのは黒胡椒で、これは東方交易で運ばれる高価な輸入香辛料だった。ドナウとティサの川筋では、漁師がその日の鯉などの淡水魚を川辺の大鍋で煮ていた。淡水魚は流域に根づいた古い在来の食材で、早くから日々の糧だった。当時の魚スープは赤くはなく、白身魚を炊いた淡い色をしていた。バルカンでも、挽いた肉を炭火で焼くキョフテ(ケバブ)系の料理が、オスマン支配のもとで広まっていた。挽き肉は土地の在来食材で、炭火の焼き技法とともに庶民の食に根づいていた。旧世界には旧世界の味の地図があり、そこに例の赤い粉はまだ無かった。
新大陸原産の唐辛子のうち、辛味のおだやかな甘い栽培種――のちにパプリカと呼ばれる実を中欧へ運んだのは、地中海と黒海を結んだオスマンの交易路だった。ポルトガルが西アフリカの植民地からインド経由で持ち込んだ唐辛子が、このオスマンの道を北上し、ハンガリーよりも先にバルカン・東欧へ根づいた。到来は早く、1569年までにはこの地で唐辛子が栽培されていた記録が残る。ハンガリーへ届いたのは16世紀、オスマン軍がこの地に及んだモハーチの戦い(1526年)の前後である。もっとも、届いたばかりのパプリカはまだ食材ではなかった。貴族の庭を飾る観賞植物であり、また薬草として扱われていた。この赤い実が台所の香辛料へと姿を変えるのは18世紀、農民や牛飼いが、高価な黒胡椒の代わりに、土地で育つパプリカを挽いて使いはじめてからのことである。1806年、ナポレオンの大陸封鎖で輸入黒胡椒の値が跳ね上がると、安価で在地栽培できるパプリカへの置き換えが一気に進んだ。
19世紀に入ると、この赤い粉はハンガリー料理の顔そのものになっていく。セゲドやカロチャでパプリカの栽培が盛んになり、1870年代には専用の製粉所が立ち、1880年代の蒸気ローラーが均質な赤い粉を大量に供給しはじめた。時を同じくして、ロマン主義的な国民主義の気運の中で、プスタの牛飼いの素朴な煮込みが、都市のエリートや貴族の食卓へ、やがてハンガリーを象徴する国民料理へと押し上げられていく。パプリカ入りのグヤーシュが料理書に現れるのは1826年刊の一冊で、大公ヨゼフの宮廷料理長チフライがまとめた国民料理書(1830年)にも、その作り方が載っている。鶏の一鍋煮込みにパプリカとサワークリームを合わせたチキンパプリカ(パプリカーシュ)も、このチフライの1830年の料理書にすでに記されており、19世紀の市民料理として広まった。鶏肉も乳も土地の在来食材で、古くから台所にあった素材である。川漁師のハラースレーが赤いパプリカ味をまとうのも同じ頃で、活字で確かめられる最初期の記録は、セゲドのレジ・ネニの料理書(1876年)にある。
同じ赤い粉は、南のバルカンでも料理の顔を塗り替えていた。オスマン期から広く作られてきた、焼いた赤ピーマンを潰す秋の保存食(ジマニツァ)が、19世紀末のベオグラードで「アイヴァル」の名を得る。その名はトルコ語で魚卵の塩漬け=キャビアを指すハヴィヤールに由来し、ドナウ産チョウザメのキャビアの供給が細ったとき、その代用として赤ピーマンのペーストが供されたという語りが伝わる。活字での最初期のレシピの一つは、1878年にノヴィ・サドで刊行されたセルビア語の料理書に見える。挽き肉を炭火で焼くバルカンのグリル料理も、パプリカを効かせた平たいパティ=プレスカヴィツァとして近代に姿を整えた。挽き肉じたいは土地に古くからある食材で、そこに炭火のグリル技術と、屋台やグリル店という近代の売り方が加わって、この一皿が形になった。
新大陸の赤い実は西へも渡っている。1790年ごろ、マルセイユを窓口に、地中海沿いのプロヴァンスへ食用として届いた。ニース近郊の農民が夏野菜を煮込んだ家庭料理は、トマトとともにこのパプリカ(ピーマン)を取り込み、のちにラタトゥイユと呼ばれる一皿になる。その現行の姿が印刷物に現れるのは20世紀の初め――中欧やバルカンの赤い料理と同じく、見た目よりずっと若い。
こうして並べてみると、「パプリカは古来ハンガリーの味だ」「この赤は太古から続く伝統だ」という感覚が、いかに新しい記憶違いかが見えてくる。16世紀に庭の飾りとして届いた実が、食卓の香辛料になったのは18世紀、料理の顔になったのは19世紀――赤い顔を持つ国民料理は、思いのほか若い、近代の産物である。この若さゆえに、由緒を古く語ろうとする物語もいくつも生まれた。チキンパプリカを1920年ごろブダペストの名店グンデルが創案したとする話は、90年も前のチフライの料理書に同じ料理が載っている以上、一店の発明ではありえない。プレスカヴィツァをセルビア南部レスコヴァツの単一の郷土料理として元祖視する語りは、ユーゴスラビア時代に作られた名物ブランド化の面が学術的に指摘されている。その起源を古代アッシリアやペルシアにさかのぼらせる説にいたっては、串焼きという調理一般の古さと、パプリカ味の現行料理の成立を取り違えたもので、史料の裏づけを欠く。祖を古く見せかける物語よりも、一粒の新大陸の実がオスマンの道を北上し、19世紀に中欧とバルカンの食卓を赤く塗り替えた――その順番をたどるほうが、ずっと確かで面白い。