ものがたり / 伝播紀行

叩いて成形する肉の一族 ―― 古代ローマに記録された技から、本家なく分かれたパティと団子と腸詰の兄弟たち

伝播紀行 登場する料理 6品

ハンバーガーの最古のレシピは古代ローマにある——そんな話を聞いたことがあるかもしれない。挽いた肉を叩き、味をつけて成形するこの技は、確かにアピキウスの料理書に載るほど古い。だが技が古いことと、料理が古いことは別である。コフタもキョフテもハンバーガーも、はるか後世に、別々の土地で生まれた。この一族に本家はいない。古いのは、分かち合われた一つの技だけである。

肉を細かく叩き、香りを練り込み、手のひらで形にして火を通す。パティに焼くか、団子に丸めるか、腸に詰めるか——仕上げは違っても、根にある手のしぐさはよく似ている。ハンブルクステーキとハンバーガー、レバントのコフタ、アナトリアのキョフテ、バルカンのチェバプチチ、ニューヨークのホットドッグ。地図の上では遠く離れたこれらを、一本の技が静かに貫いている。そしてこの技は、驚くほど古くまでさかのぼれる。

古代ローマの料理書『デ・レ・コクィナリア』——アピキウスの名で伝わるこの本の第二巻に、イシキア・オメンタタ(isicia omentata)という一皿が載っている。挽いた肉に、葡萄酒にひたしたパンと胡椒、魚醤(ガルム)、ミルテの実を練り込み、網脂(あみあぶら)で包んで焼く。ひき肉を味つけして成形した、まぎれもないパティである。同じ本には、ルカニア地方にちなむ腸詰(ルカニカ)も別のレシピとして並ぶ。この料理書がまとめられたのは、俗ラテン語でつづられた一世紀から五世紀のどこかだ。つまり、肉を叩き、香辛料と魚醤で調味し、パティに焼き、あるいは腸に詰めるという技は、遅くともローマ時代には確かな形をとっていた。イシキア・オメンタタは、その技が現存する記録のなかで最も古く姿を見せる一例なのである。

ただし、ここが肝心なところだ。この記録が教えてくれるのは、技が遅くともローマ時代には存在したという下限であって、後の料理がそこから一本の糸で続いてきたという証拠ではない。イシキア・オメンタタはコフタの祖先でもハンバーガーの祖先でもない。挽いて叩いて成形するという発想はあまりに素朴で、誰かが一度発明して各地へ配ったというより、必要に応じてあちこちで別々に思いつかれた類のものだ。技の古さは、それを使う個々の料理の成立年を、古代まで引き上げはしない。ここを取り違えると、料理はいくらでも古く、いくらでも由緒ありげになれてしまう。

技が次に確かな記録に現れるのは、ローマから何世紀もくだった中世のイスラム世界である。ペルシア語のクーフタ(kūfta)は「搗く・叩く」を意味し、肉を叩いて成形する調理そのものを名に負っている。十世紀バグダードのイブン・サイヤール・アル=ワッラーク『料理の書(キターブ・アル=タビーフ)』や、十三世紀のアル=バグダーディー同名書(一二二六年)には、卵黄とサフランでつやを出した大ぶりの羊の挽き肉団子が記されている。もっとも、これらの原典は「クーフタ」という語そのものを使ってはいない——現代の翻訳者や食物史家が、後からこの系統の料理と見なして名づけたものだ。だから、この料理タイプが遅くとも十世紀には存在したことは言えても、それが「コフタの発祥」を指すわけではない。レバントのコフタは、この搗き肉団子の系譜に連なる、記録の上で古い一員である。

同じ技が、アナトリアではキョフテ(köfte)になった。トルコ語のこの名が文献に現れるのは、十五世紀以降のオスマン宮廷の記録だ。ペルシア語のクーフタを語源にもち、今日ではトルコ各地に二百種を超える変種がある。その起源については、中世アラブ・ペルシア料理書の系譜に連なるとする見方と、中央アジアのテュルク系遊牧民の調理に発するとする見方とがあり、史料だけではどちらとも決めきれていない。バルカンのチェバプチチ(ćevapčići)も、オスマン帝国の辺境に広まった串焼き肉の文化から立ち上がった。小さな棒状に成形して炭火であぶるこの料理は、十九世紀半ばに南セルビアのレスコヴァツで形をとり、一八六〇年代にはベオグラードのカファナ(居酒屋)の品書きに載る。名前は、ペルシア語のケバーブがオスマン・トルコ語のケバプになり、そこへ南スラヴ語の「小さいもの」を表す語尾がついたものだ。近年、この料理を「うちこそ真の起源」と競う声がセルビアとボスニアの間にあるが、記録の上ではセルビア側が先に現れる。ボスニアの歴史家自身が、チェバピは一九〇〇年代以前のボスニアではまず食べられていなかったと結論しているほどだ。中世から近世にかけて、この技はペルシアの語とオスマンの街頭のなかで、それぞれの土地の羊肉と香辛料をまとって、別々の料理へと結晶していった。

そして十九世紀、技は大西洋を越え、また新たな顔になる。ドイツ最大の出移民港ハンブルクでは、叩いた牛肉のステーキが港の名物になった。前身は十七世紀にはあったフリカデレのような挽き肉料理だ。一八四八年の革命以降、大西洋を渡ったドイツ移民がこれをアメリカへ持ち込み、一八七三年にはニューヨークのデルモニコの品書きに「ハンブルクステーキ」として記録される。やがてこの挽き肉ステーキはパンにはさまれ、ハンバーガーになった。誰が最初にはさんだのかについては、コネチカットのルイス・ラッセン、テキサスのフレッチャー・デイヴィス、ウィスコンシンのチャーリー・ナグリーンと、各地が「うちが元祖」を名のる。だがどれも独立した史料では裏づかず、たがいに収束しない。食物史の見方は「単一の発明者はいない、あちこちで並行して生まれた」だ。発祥の主張が一八八五年から一九〇四年に集中するのは、安くて均質な挽き肉を大量に供給する機械式肉挽き器が普及した時期と重なっている。文献にハンバーガーが最初に現れるのは、一八九四年のテキサスの新聞広告である。

ホットドッグもまた、同じ十九世紀のアメリカ都市で、ドイツ系移民のソーセージから育った。フランクフルトやウィーン由来の腸詰を、移民が街頭の屋台や球場で少しずつ大衆の軽食に変えていった。コニーアイランドのフェルトマンが最初の屋台を開いた、フォイヒトヴァンガーがパンを発明した、ドーガンの漫画が「ホットドッグ」と名づけた——こうした発祥譚は、フード史家ブルース・クレイグらの検証がことごとくしりぞけている。ドーガンがアメリカに渡ったのは命名より後で、問題の漫画も後年のものだった。ここでも単一の発明者はいない。ソーセージそのものは、アピキウスのルカニカにまでさかのぼれるほど古い技だが、それをパンにはさむ十九世紀ニューヨークの一皿の成立年とは、まったくの別ものである。

面白いことに、ハンバーガーにはいまなお「最古のレシピは古代ローマのイシキア・オメンタタだ」という話がまとわりつく。技が古いのは本当だ。だがハンバーガーが成り立つには、機械式肉挽き器と都市の屋台という十九世紀の条件が要った。ローマの網脂で包んだパティと、ニューヨークの屋台のパティの間には、一本の途切れない糸があるわけではない。料理が文献に最初に現れた年は、遅くともその頃には存在したという下限を教えてくれるだけで、生まれた瞬間を指しはしない。まして、技が記録された年を料理の誕生年にすり替えれば、コフタもハンバーガーも古代ローマ生まれということになってしまう。古い技をひとすじの系図に仕立てあげたくなる誘惑こそ、この一族をめぐる物語がくりかえし落ちてきた穴だった。

叩いて味をつけて成形するという一つの技が、ペルシアの厨房で、オスマンの街頭で、ハンブルクの港で、ニューヨークの屋台で、それぞれの言葉と火と香りのなかで別々の料理へと結晶した。どれかが本家で、他がその子だというのではない。古いのは技だけで、料理はみな、はるか後世に生まれた対等な兄弟たちである。祖の座を一つに定めようとするほど、証拠はいくつもの土地と時代に散っていく。ひとすじの古い系図を描くより、一つの手のしぐさが二千年をまたいで、団子にもパティにも腸詰にもなっていった道筋のほうが、ずっと確かで、ずっと面白い。

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