三州味噌汁は三河の味噌(三州味噌)で仕立てる味噌汁で、大正10年(1921)の料理書には、刻んだ味噌を煮出汁で煮て、澄んだ上汁だけを椀に注ぐ作り方が載る。三州味噌で汁を仕立てる作り方は明治19年(1886)の雑誌にすでに見えるが、誰がいつ作り始め、いつからこの名で呼ばれるようになったのかは分かっていない。
3ゲート
- 食材入手ゲート
- 三州味噌(三河の味噌。明治8年の物産の事典が三河の産物として載せる)と鰹節の煮出汁=いずれも在来で、外来食材の到来に縛られない
- 調理技術ゲート
- 鰹節の煮出汁に三州味噌を庖刀で刻んで入れて煮、しばらく置いて澄んだ上汁を酌み取り、下煮した具を盛った椀に注ぐ(味噌は擂らない)
- 場ゲート
- 明治には献立の椀盛の前の汁として、大正には家庭向けの料理書に作り方が載る
成立年代と成立ゲート
主役食材(味噌)は在来で、到来による制約がない。下限の縦線は無く、帯は成立年代を示す。
検証メモ: 三河の味噌(三州味噌)で仕立てる味噌汁。明治19年(1886)の雑誌『庖丁鹽梅』に、鰹節の煮汁に三州味噌を溶いて漉した汁の作り方が載る(汁の名は書かれていない)。明治38年(1905)7月の雑誌『月刊食道楽』は献立の椀に「三州味噌汁」を置き、同じ名前で作り方を載せる。大正10年(1921)の『料理必携』は「三州味噌汁」の一節を立て、鰹節の煮出汁に三州味噌を刻んで入れて煮、しばらく置いて澄んだ上汁を酌み取り、下煮した具を盛った椀に注ぐとし、三州味噌は擂って使ってはいけないと注意する。この名前が明治38年より前から使われていたかは確かめられていない。
起源説
未確定
★主 三河の味噌(三州味噌)で仕立てる味噌汁として、明治の献立と大正の料理書に載る(始まりは未特定) B
三州は三河の別称で、明治8年(1875)の『日本物産字引』は三河の産物に味噌を挙げ、三州味噌と呼んで好事家がもっとも好むとする。その味噌で仕立てた汁が三州味噌汁である。明治19年(1886)12月の雑誌『庖丁鹽梅』第1集は、会席の献立の汁として、鰹節の煮汁に三…続きを読む
三州は三河の別称で、明治8年(1875)の『日本物産字引』は三河の産物に味噌を挙げ、三州味噌と呼んで好事家がもっとも好むとする。その味噌で仕立てた汁が三州味噌汁である。明治19年(1886)12月の雑誌『庖丁鹽梅』第1集は、会席の献立の汁として、鰹節の煮汁に三州味噌を溶いて煮漉し、水嚢で漉した汁で若大根を煮立てる作り方を載せる。明治24年(1891)7月の雑誌『花たら誌』の会席の献立では、「汁」の欄に三州味噌と書かれ、椀盛の前に置かれる。同じ年の12月の『女宝』は、懐石の汁を赤味噌・三州味噌の薄仕立とする。この三つはいずれも、汁を「三州味噌汁」という一続きの名前では書いていない。明治38年(1905)7月の雑誌『月刊食道楽』では、赤堀峯吉の献立が椀に「三州味噌汁」を置き、同じ名前の見出しで、刻んだ三州味噌を水とともに煮立て、削った鰹節を入れてもう一度煮立ててから漉す作り方を載せる。大正10年(1921)の『料理必携』は汁の部に「三州味噌汁」の一節を立て、鰹節の煮出汁に三州味噌を庖刀で刻んで入れて煮、しばらく置いて澄んだ上汁を酌み取り、下煮した具を盛った椀に注ぐ作り方を載せ、三州味噌は擂って使ってはいけないと注意する。この名前で書かれた例のうち頁を読んで確かめたものでは『月刊食道楽』が最も古く、それより前に名前が使われていたかは確かめられていない。誰がいつ作り始めたかを語る史料は見つかっておらず、発祥の言い伝えも無い
- 支持 東京割烹講習会 編『料理必携』東京割烹講習会、大正10年(1921)、コマ65、国立国会図書館デジタルコレクション PID 960180(インターネット公開) 重み5
- 支持 橋爪貫一 輯録『日本物産字引』明治8年(1875)、コマ14、国立国会図書館デジタルコレクション PID 992185(インターネット公開) 重み5
- 支持 『花たら誌』(34)、艶文社、1891年7月、コマ16、国立国会図書館デジタルコレクション PID 1601611(図書館・個人送信) 重み5
- 支持 『庖丁鹽梅』(1)、三信舎、明治19年(1886)12月、コマ28、国立国会図書館デジタルコレクション PID 1554270(図書館・個人送信) 重み5
- 支持 岡本可亭 編『女宝』金桜堂、明治24年(1891)12月、コマ163、国立国会図書館デジタルコレクション PID 848402(インターネット公開) 重み5
- 支持 『月刊食道楽』1(3)、有楽社、明治38年(1905)7月、コマ41、国立国会図書館デジタルコレクション PID 1537899(図書館・個人送信) 重み5
解説
刻んだ味噌を煮て上澄みを汲む
大正10年(1921)に東京割烹講習会が編んだ『料理必携』は、汁の部に「三州味噌汁」の一節を立て、作り方をこう書いている。
「三州味噌汁の拵へ方は、鍋に鰹節の煮出汁を一升程取り、鍋を火に架け、これに三州味噌を四十匁庖刀にて刻んで入れ、其の儘十五分間も煮て鍋を下し、暫く蒸して置いて、其の澄んだ上汁を酌み取り、而して身に用ひる材料を下煮して椀に盛り、この汁を温めて八分目位に椀につぎ入れるのです。」
味噌は擂鉢で擂らず、庖丁で刻んで煮出汁に入れる。十五分ほど煮たら鍋を火から下ろし、しばらく置いてから、上に澄んだ汁だけを汲み取る。具は別に下煮して椀に盛っておき、温め直した汁を椀の八分目ほどまで注ぐ。続く頁の注意書きには「三州味噌は擂つて用ひては不可ませぬ」とあり、擂ってはいけないと念を押している。
水から煮立てて篩で漉す
それより16年前、明治38年(1905)7月の雑誌『月刊食道楽』第1巻第3号では、赤堀峯吉が季節の献立を書き、二汁五菜の椀に「三州味噌汁」を置いている。汁の具はいちょう切りの大根である。同じ記事は「三州味噌汁」の見出しを立て、作り方をこう書く。
「十人前に六十目ほどの三州味噌を板の上に載せ、庖刀にて細かに刻み、鍋に水と共に加れ、沸騰したればほどよく削りたる鰹節を投じ、更に一と沸騰せしめて鍋を下し毛篩にて他の鍋に漉し移し再び元の鍋に入れ温めて用ゆ」
味噌を板の上で庖丁で刻むところは『料理必携』と変わらない。ただ、こちらは鰹節の煮出汁を先に取らず、刻んだ味噌を水と一緒に鍋で沸かし、そこへ削った鰹節を入れてもう一度沸かす。鍋を下ろしたら、上澄みを汲むのではなく、毛篩で別の鍋へ漉し移し、元の鍋に戻して温め直して使う。同じ名前の汁でも、明治の献立と大正の料理書とで手順は同じではない。
三河の味噌
三州は三河の国の別の呼び名で、三州味噌は三河の味噌を指す。明治8年(1875)に橋爪貫一がまとめた『日本物産字引』は、三河の産物に味噌を挙げて「三州味噌と称へ好事家最も賞美す」と書く。明治の初めには、三河の味噌は三州味噌の名で通り、好事家がもっとも好む味噌とされていた。
三州味噌汁は、この三河の味噌で仕立てた汁である。大正14年(1925)の家庭向けの惣菜の本には、白身魚の擂り身を素麺のように茹でた魚素麺と里芋を椀に入れ、熱い三州味噌の汁を注ぐ一品も載っている(魚素麺・里芋の三州味噌汁)。
検証ストーリー
明治19年(1886)12月に出た雑誌『庖丁鹽梅』の第1集は、会席の献立の汁として、鰹節の煮汁に三州味噌を溶いて煮漉し、水嚢で漉した汁で若大根を煮立てる作り方を載せている。三州味噌で汁を仕立てる作り方としては、いま見つかっているなかでこれが最も古い。ただ、そこに汁の名は書かれていない。
明治24年(1891)7月の雑誌『花たら誌』に載る会席の献立でも、六月分の「汁」の欄に三州味噌と書かれ、具に空豆、吸口に落し芥子が添えられて、椀盛の前に置かれている。紙面にあるのは「汁」の見出しと、その中身としての「三州味噌」で、「三州味噌汁」という一続きの名前は書かれていない。
「三州味噌汁」という一続きの名前で書かれた例としていま確かめられている最も古いものは、明治38年(1905)7月の雑誌『月刊食道楽』である。赤堀峯吉の献立が椀に三州味噌汁を置き、同じ名前の見出しで、刻んだ味噌を水で沸かし、鰹節を入れてもう一度沸かしてから漉す作り方を載せている。ただ、それより前にこの名前が使われていたかどうかは確かめられておらず、明治38年がこの名前の始まりだとは言えない。
大正10年(1921)の『料理必携』も汁の部に「三州味噌汁」の一節を立てるが、手順は『月刊食道楽』と違い、鰹節の煮出汁に刻んだ三州味噌を入れて煮て、澄んだ上汁を使う。味噌を擂ってはいけないという注意も、この本が三州味噌汁の手順として書いている。
明治19年より前のことも分かっていない。江戸時代の料理書に同じ汁があったのかどうかは分からず、誰が三河の味噌でこの汁を仕立て、三州味噌汁と呼び始めたのかを語る記録は見つかっていない。発祥の言い伝えも残っていない。
検証ログ 追記専用の監査証跡
| 日付 | 結果 | 確度 | 主張 / 出典 | 更新者 |
|---|---|---|---|---|
| 2026-10-21 | 支持 | C→B |
大正10年(1921)の『料理必携』の汁の部に「三州味噌汁」の一節があり、鰹節の煮出汁に三州味噌を刻んで入れて煮、澄んだ上汁を酌み取って、下煮した具を盛った椀に注ぐ作り方が載る。遅くともこの年には料理書に作り方が載っていた
|
研磨係 |
| 2026-10-21 | 支持 | B→B |
三州味噌は三河の味噌の呼び名で、明治8年(1875)の物産の事典が三河の産物として載せる。三州味噌汁の三州は、味噌の産地(三河)を指す
|
研磨係 |
| 2026-10-21 | 支持 | B→B |
🚫 この記述は後の検証で訂正された(→ 該当行へ) 明治24年(1891)7月の雑誌の献立に「三州味噌汁」の名が椀盛の前の汁として載る。名前の付いた品として確かめられた最も古い例(本文の抜粋による)
|
研磨係 |
| 2026-10-21 | 支持 | B→B |
明治24年(1891)7月の雑誌『花たら誌』の会席の献立(六月分)では、汁の欄に三州味噌と書かれ、具に空豆、吸口に落し芥子が添えられている。紙面の文字は「汁」の見出しのあとに「三州味噌」が続く形で、「三州味噌汁」という一続きの名前としては書かれていない。本文の抜粋(OCR)で「三州味噌汁」と読めたのは、見出しの「汁」と中身の「三州味噌」を一続きに拾ったもの
|
研磨係 |
| 2026-10-21 | 支持 | B→B |
明治19年(1886)12月の『庖丁鹽梅』第1集は、会席の献立の汁として、鰹節の煮汁に三州味噌を溶いて煮漉し、水嚢で漉した汁で若大根を煮立てて器に盛る作り方を載せる。汁の名(三州味噌汁)は書かれていない。三州味噌で仕立てる汁の作り方は、遅くともこの年には雑誌に載っていた
|
研磨係 |
| 2026-10-21 | 支持 | B→B |
明治24年(1891)12月の『女宝』の茶の湯の稽古の章は、懐石の汁を赤味噌・三州味噌の薄仕立とし、汁の実を季節ごとに挙げる。汁の名(三州味噌汁)は書かれていない
|
研磨係 |
| 2026-10-21 | 支持 | B→B |
明治38年(1905)7月の雑誌『月刊食道楽』第1巻第3号の赤堀峯吉「季節料理(玉子料理法)」は、二汁五菜の献立の椀に「三州味噌汁」を置き(実はいちょう切りの大根)、作り方を「三州味噌汁」の見出しで載せる。十人前に三州味噌六十匁ほどを板の上で庖丁で細かく刻み、水とともに鍋に入れて沸かし、削った鰹節を入れてもう一度沸かしてから毛篩で漉し、温め直して使う。「三州味噌汁」という一続きの名前で書かれた例として、頁の画像で確かめた中では最も古い(それまでの最古は大正10年『料理必携』)。作り方は『料理必携』(煮出汁に刻んだ味噌を入れて煮、上澄みを使う)と同じではない
|
研磨係 |
構成素材
この料理を構成する素材の成立史へ。「成立史は準備中」の素材はまだページがありません。
- 素材味噌成立史は準備中