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かりんとう 時期 C起源説 C検証済

確度は2軸: 時期=成立時期の固さ/起源説=発祥譚(説)の固さ(A〜Dの4段階・別々に持つ)。確度とは?→

暴かれた通説あり出典で反証された通説を抱える料理です(真の起源は未確定のことが多い)。

日本 ・ 同時代史料で確認できる最古の記載は、万延2年(1861)刊の合巻『太皷櫓恵礎』第21コマで、夜の物売りを連ねる一節に『ふかがはめいぶつ(深川名物)…くわりんたう…まるきてうちん(丸い提灯)』が並ぶ。以後は1883年の歌舞伎脚本『今文覚助命刺繍』の『其頃流行物 深川名物かりん糖』、1889年『言海』の語釈、1902年『東京風俗志』の夜の振売と続く。黒砂糖が庶民の菓子材料へ降りる18世紀後半を物理的下限とし、成立の窓は1750-1861。※1861年の本文は国立国会図書館の古典籍の機械翻字(崩し字OCR)によるもので、原本の該当行は目視未確定 ・ 成立年代 1750–1861 ・ 主役食材 砂糖

記章(DB由来の作図・装飾/監修・認証ではない)|起源説確度C・検証済C記章(DB由来の作図・装飾)

奈良時代の遣唐使が持ち帰った唐菓子に始まる1200年の菓子——かりんとうの由来としてよく語られるこの話は、唐菓子とこの菓子を結ぶ史料を一つも持たない。名がはっきり現れるのは幕末の深川、大きな提灯を提げて夜の町を売り歩く振売の菓子としてである。

検証ハイライト 俗説 → 判定 → 根拠

主な説
かりんとうは、江戸・深川の駄菓子として、また夜の町を売り歩く振売の菓子として庶民に広まった、という理解。江戸期・明治期の3つの史料が、40年にわ…
判定
諸説あり(対立説を併記)
主な根拠
反証大槻文彦編『言海:日本辞書』(明治22年=1889・NDLデジタルコレクション PID992954):「くわりんたう(名)花林糖〔花櫚ノ色ヨリ名ヲツクルカ〕うどん粉ニ砂糖ヲ和シテ、細長ク切リテ乾シテ、油ニアゲタルモノ」=日本初の近代国語辞典における花林糖の語釈と語源推定重み5 支持『今文覚助命刺繍』(明治16年=1883刊の歌舞伎脚本・NDLデジタルコレクション PID882785)第二回 下谷三味線堀七ツ蔵の場:「其頃流行物 深川名物かりん糖〜〜と呼び歩行く…かりん糖やの辻占を開き見て…」=辻占を添えて振売する深川名物のかりん糖の描写(劇中の時代設定は江戸だが作は明治期)重み5

史料が示すこと: かりんとうは、江戸・深川の駄菓子として、また夜の町を売り歩く振売の菓子として庶民に広まった、という理解。江戸期・明治期の3つの史料が、40年にわたって同じ像を結ぶ。(1)万延2年(1861)刊の合巻『太皷櫓恵礎』(並木舎五柳編・梅蝶楼国貞画)は、夜の物売りを連ねる一節に『あまいからいのおでん かんざけ…これもみすぎのおなぐさみ ふかがはめいぶつ やまくちや…くわりんたう よのなか まるきてうちんの』と、深川名物・くわりんたう・丸い提灯を並べる。(2)『今文覚助命刺繍』(河竹黙阿弥・明治16年=1883刊)の下谷三味線堀の場は『其頃流行物 深川名物かりん糖〜〜と呼び歩行く』『かりん糖やの辻占を開き見て』と、辻占を添えて売り歩く深川名物のかりん糖を描き、明治22年(1889)刊の別版は配役に『かりんとうや』を立て、ト書きに『大きな提灯を襟へさし 箱を首へ掛 立掛り居る…時の鐘の合方六ツ半』=提灯を襟に挿し箱を首から掛けた夜の売り姿を書く。(3)平出鏗二郎『東京風俗志』(明治35年=1902)は『花梨糖売も同じく夜来りて、その売声また奇なり』と明治東京の夜の振売として記録する。すなわち、深川名物としての かりんとう と、大きな提灯を提げた夜の振売という姿は、江戸末期から明治にかけて連続して確認できる。留保: (1)の本文は国立国会図書館の古典籍の機械翻字(崩し字OCR)によるもので、原本は合巻の草書体であり、当方は該当行を目視で確定していない。したがって『深川名物のかりんとうが江戸期に実在した』ことの確からしさは高いが、逐語の確認は次の課題として残る なお「唐菓子起源説(奈良時代の遣唐使が伝えた唐菓子=捻頭・麻花に始まる「1200年の歴史」)」という通説一次史料・学術文献で退けられている。

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3ゲート

食材入手ゲート
小麦粉・揚げ油は在来。黒砂糖がけの現行形は砂糖(とくに安価な黒砂糖)が庶民の菓子材料として流通することに律速され、その時期は18世紀後半(食材ゲート台帳 砂糖@日本〈大衆〉1750-1800)。ただし当該時期にかりんとうが実在した同時代史料は確認できていない
調理技術ゲート
生地を細く成形して揚げ、糖蜜をからめる製菓技術
場ゲート
深川など東京市中の駄菓子屋・縁日・夜の振売で庶民に普及。江戸末期(万延2年=1861)の合巻が『深川名物』と『くわりんたう』を夜の物売りの列に並べ、明治期の歌舞伎脚本(1883年刊・1889年刊の別版)は大きな提灯を襟に挿し箱を首から掛けて売り歩く『かりん糖売』を配役に立て、『東京風俗志』(1902)は『花梨糖売も同じく夜来りて、その売声また奇なり』と記す=江戸末期から明治にかけて連続して確認できる

成立年代と食材入手ゲート

食材入手(825年・在地/到来)が律速=物理的な下限。成立年代の帯はそれ以降にある(場ゲートは年に乗らない構造ゲート)。

成立年代と成立ゲート成立 1750–1861食材入手・律速 825(在地/到来/砂糖)7211965
  • 食材入手(流通/在地/加工の経路を内包)
  • 太線=律速(最も遅い=成立を縛る)
  • 細線=既に充足
  • 場ゲートは年に乗らない構造ゲート(図外)

起源説

定説

★主 深川名物の夜の振売に始まる説(万延2年=1861の合巻に『深川名物…くわりんたう』) B

かりんとうは、江戸・深川の駄菓子として、また夜の町を売り歩く振売の菓子として庶民に広まった、という理解。江戸期・明治期の3つの史料が、40年にわたって同じ像を結ぶ。(1)万延2年(1861)刊の合巻『太皷櫓恵礎』(並木舎五柳編・梅蝶楼国貞画)は、夜の物売りを連…続きを読む

かりんとうは、江戸・深川の駄菓子として、また夜の町を売り歩く振売の菓子として庶民に広まった、という理解。江戸期・明治期の3つの史料が、40年にわたって同じ像を結ぶ。(1)万延2年(1861)刊の合巻『太皷櫓恵礎』(並木舎五柳編・梅蝶楼国貞画)は、夜の物売りを連ねる一節に『あまいからいのおでん かんざけ…これもみすぎのおなぐさみ ふかがはめいぶつ やまくちや…くわりんたう よのなか まるきてうちんの』と、深川名物・くわりんたう・丸い提灯を並べる。(2)『今文覚助命刺繍』(河竹黙阿弥・明治16年=1883刊)の下谷三味線堀の場は『其頃流行物 深川名物かりん糖〜〜と呼び歩行く』『かりん糖やの辻占を開き見て』と、辻占を添えて売り歩く深川名物のかりん糖を描き、明治22年(1889)刊の別版は配役に『かりんとうや』を立て、ト書きに『大きな提灯を襟へさし 箱を首へ掛 立掛り居る…時の鐘の合方六ツ半』=提灯を襟に挿し箱を首から掛けた夜の売り姿を書く。(3)平出鏗二郎『東京風俗志』(明治35年=1902)は『花梨糖売も同じく夜来りて、その売声また奇なり』と明治東京の夜の振売として記録する。すなわち、深川名物としての かりんとう と、大きな提灯を提げた夜の振売という姿は、江戸末期から明治にかけて連続して確認できる。留保: (1)の本文は国立国会図書館の古典籍の機械翻字(崩し字OCR)によるもので、原本は合巻の草書体であり、当方は該当行を目視で確定していない。したがって『深川名物のかりんとうが江戸期に実在した』ことの確からしさは高いが、逐語の確認は次の課題として残る

反証

唐菓子起源説(奈良時代の遣唐使が伝えた唐菓子=捻頭・麻花に始まる「1200年の歴史」) D

かりんとうは奈良時代に遣唐使が持ち帰った唐菓子(小麦粉を練って油で揚げ甘葛で甘みを付けた菓子。八種唐菓子・十四種果餅のうち捻頭・環餅の類)に始まり、平安期は貴族の高級菓子、江戸中期に庶民化した、とする説。製菓業界・小売の解説が「1200年の歴史」として広く流布…続きを読む

かりんとうは奈良時代に遣唐使が持ち帰った唐菓子(小麦粉を練って油で揚げ甘葛で甘みを付けた菓子。八種唐菓子・十四種果餅のうち捻頭・環餅の類)に始まり、平安期は貴族の高級菓子、江戸中期に庶民化した、とする説。製菓業界・小売の解説が「1200年の歴史」として広く流布する。反証・疑い: (1)唐菓子とかりんとうを結ぶ史料が存在しない。共通するのは「小麦粉を練って油で揚げる」という技法だけで、技法の古さはその料理の成立年ではない(前史技法の実証と成立の混同)。(2)『嬉遊笑覧』(1830)巻十上は唐菓子(粉熟・団喜・粘臍・捻頭など)の遺制を論じるが、そこにかりんとう(花林糖)は現れない。(3)そもそも「かりんとう/花林糖/かりん糖/花梨糖」の語が、当方の到達しうる全文コーパスでは明治以前にまったく現れない(下記の検証ログの射程を参照)。(4)最初期の語源説である『言海』(1889)の推定は「花櫚ノ色ヨリ名ヲツクルカ」=花櫚(かりん)の材の色に由来するかというもので、唐菓子とは無関係である。したがって唐菓子起源説は、技法の類似から遡って作られた由緒譚とみるのが妥当。

未確定

語源:花櫚(花梨)の色に由来するとする説 C

『言海』(明治22年=1889)が花林糖の項に付す語源推定「〔花櫚ノ色ヨリ名ヲツクルカ〕」=黒糖をまとった揚げ菓子の色が唐木の花櫚(かりん)の材色に似ることから名づけられたか、とする説。同時期の辞書は「かりんとう=花梨糖の訛り」「かりんどう=花梨胴の訛り」(『日本大辞書』1893・『帝国大辞典』1896・『日本新辞林』1897)と、いずれも花梨(花櫚)系の表記を本来とみている。唐菓子起源説とは無関係の語源系統であり、明治期の辞書編纂者は唐菓子との関係を述べていない。ただし「〜カ」という推定形で書かれているとおり、当時から確証のある語源ではない。

解説

小麦粉と油と、黒い糖蜜

日本で最初の近代国語辞典である『言海』(1889年)は、花林糖をこう説明する。「うどん粉ニ砂糖ヲ和シテ、細長ク切リテ乾シテ、油ニアゲタルモノ」。小麦粉の生地を細長く成形し、乾かして油で揚げ、糖蜜をからめる。今日のかりんとうと変わらない。

材料は三つしかない。うち小麦粉と揚げ油は、日本の台所に古くからあるものである。生地を細く切って油で揚げるという手つきも、そのための道具も、菓子屋にとって特別なものではなかった。

事情が違うのは砂糖である。黒い糖蜜をたっぷりまとわせるという、この菓子の身上をなす部分がそれにあたる。砂糖、とりわけ安価な黒砂糖が庶民の菓子屋の材料として値ごろに出回るようになるのは18世紀の後半で、それより前に、黒くつやのある駄菓子が町にあふれることはなかった。

深川の名物、夜の振売

かりんとうの姿がはっきり見えるのは、江戸の町の夜である。万延2年(1861年)に刷られた合巻『太皷櫓恵礎』は、夜の物売りを次々に連ねる一節に「あまいからいのおでん かんざけ」を並べ、そこへ「ふかがはめいぶつ」「くわりんたう」「まるきてうちん」を置く。深川の名物であること、丸い提灯を提げた売り手が担っていることが、この一続きの文句から読み取れる。江戸期に刷られた本でこの語が見えるのは、いまのところこの一例だけである。

明治に入ると、同じ光景が舞台に上がる。河竹黙阿弥の『今文覚助命刺繍』(1883年)の下谷三味線堀の場は、「其頃流行物 深川名物かりん糖」と呼び歩く売り手を出し、辻占を添えて売らせる。1889年に出た別の版は配役に「かりんとうや」を立て、ト書きに売り姿を書き込んだ。大きな提灯を襟に挿し、箱を首から掛けて立つ。幕が開くのは六ツ半の鐘と、夜回りの六尺棒の音である。

平出鏗二郎の『東京風俗志』(1902年)も、かりんとうを夜の商いとして書きとめる。「花梨糖売も同じく夜来りて、その売声また奇なり」。売り声には「淡路島通ふ千鳥の」という歌の文句が引かれていた。駄菓子屋の店先だけでなく、縁日と夜の町がこの菓子の売り場だった。

いつ生まれたかは決まらない

最初にこれを作った人も、作られた年も、書きとめた記録がない。手がかりになるのは両端だけである。黒砂糖が庶民の菓子の材料として回りはじめる18世紀後半より前には成り立たず、幕末の1861年には深川の名物として文句に読み込まれるほど知られていた。生まれた時期は、その百年ほどのあいだのどこかと見られる。

検証ストーリー

菓子の袋にも、製菓会社の解説にも、同じ由来が刷られている。かりんとうは奈良時代に遣唐使が持ち帰った唐菓子に始まる、平安の貴族が食べた高級菓子が江戸で庶民に降りてきた、1200年の歴史を持つ——。唐菓子とは、小麦粉を練って油で揚げ、甘葛で甘みを付けた供物の菓子で、捻頭や環餅がその代表とされる。

この由来が寄って立つのは、技法の一致だけである。小麦粉を練って油で揚げる。共通するのはそこまでで、唐菓子とかりんとうを結ぶ史料は出てこない。揚げるという技が古いことは、その技で作られた個々の菓子が古いということではない。

近世の菓子を扱った書物は、むしろ逆を語る。『嬉遊笑覧』(1830年)は唐菓子の遺制を論じた条を持ち、粉熟・団喜・粘臍・捻頭と名を挙げて、どれが後の何にあたるかを一つずつ検めている。花林糖はそこに出てこない。近世の菓子に関する諸書の記述を逐語で集めた『古事類苑』飲食部九の菓子の部も同じで、羊羹の古い製法から大福餅の由来まで写しながら、花林糖の条を立てていない。江戸の菓子を語る当時の書き手たちの視野に、この名は入っていなかった。

語のかたちも唐を指さない。『言海』が花林糖の項に付した語源の推測は「花櫚ノ色ヨリ名ヲツクルカ」、つまり黒糖をまとった揚げ菓子の色が唐木の花櫚の材の色に似ているからか、というものである。明治の辞書はそろって花梨・花櫚の系統の表記を本来とみており、遣唐使にも唐菓子にも触れていない。ただし『言海』の書きぶり自体が「〜カ」という推し量りで、名の由来もそこで確定してはいない。

かわりに残るのが、幕末の一節である。万延2年(1861年)の合巻に「ふかがはめいぶつ」「くわりんたう」「まるきてうちん」が並び、そこから20年ほどの隔たりで、明治の舞台に提灯を襟へ挿したかりん糖売が立ち、さらに20年後の風俗誌が夜の売り声を書きとめる。深川の名物であることと、夜の振売という商いの形は、幕末から明治にかけて途切れずに現れる。

かりんとうがいつ、誰の手から始まったのかは分かっていない。分かっているのは、1200年という由緒が、揚げるという技の古さを菓子そのものの齢に読み替えたものだということと、この菓子が江戸の夜の町で名を売った駄菓子だということである。

検証ログ 追記専用の監査証跡

日付結果確度主張 / 出典更新者
2026-08-15 反証 D→D
「かりんとう/花林糖/かりん糖/花梨糖」の語は、国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」(保護期間満了図書の全文検索。江戸期の版本も『吉原大全』1768・『物類称呼』1775・『庭訓往来』等が収録される部分集合であり、江戸期出版物を網羅するものではない)で4表記を全ヒット取り切って通覧した範囲では、明治期以前に食物としての用例が現れない。最古の確実な用例は『今文覚助命刺繍』(1883)の「深川名物かりん糖」と『言海』(1889)の語釈である
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2026-08-15 反証 —→—
唐菓子(捻頭・環餅など)とかりんとうを結ぶ史料は確認できない。両者に共通するのは「小麦粉を練って油で揚げる」という技法だけで、技法の古さは料理の成立年ではない。『嬉遊笑覧』(1830)巻十上は唐菓子の遺制(粉熟・団喜・粘臍・捻頭)を具体的に論じるが、そこに花林糖は現れない
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2026-08-15 支持 —→—
かりんとうと深川の結びつきは史料で確認できるが、確認できるのは明治期である。『今文覚助命刺繍』(1883)が「其頃流行物 深川名物かりん糖〜〜と呼び歩行く」と辻占を添えた振売を描き、『東京風俗志』(1902)が「花梨糖売も同じく夜来りて、その売声また奇なり」と夜の振売として記録する
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2026-08-20 支持 D→C
『くわりんたう』の語は江戸期の刊本に現れ、そこでは『深川名物』および夜の物売りの丸い提灯と同じ一節に並ぶ
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2026-08-20 反証 D→D
唐菓子起源説は、近世の菓子を集成した史料の側からも支持されない
出典: 『古事類苑』飲食部九 菓子(神宮司庁・1914年・NDLデジタルコレクション PID 897866)— 近世の菓子に関する諸書の逐語を集成した部。【鶉餅・大福餅の条】『嬉遊笑覧』の当該条を全文で引き、『本朝食鑑』の焼餅『有焼餅者、以煮赤豆泥為餡、平団而裏之、釜上焼之…此非上饌、民間之賞也』と『人倫訓蒙図彙』の焼餅師『大和大路五条の角にあつてこれをあきなふ、其外所々にあり』を並べる。【羊羹の条】『和漢三才図会』(1712)の造法『羊羹造法、煮赤豆去皮絞水、用粉和麪粉、以沙糖煎汁洩之蒸…要色黒者用玉沙糖、或入鍋底炭…裹竹籜』/『守貞漫稿』の『羊羹ノ古製 小豆一升 砂糖准之 小麦粉五勺 鍋墨少々加ヘユルク煉リ合セ、蒸籠ニ掛ケ、サマシテ後ニ細長ク四角ニ切ル 色黒シ云々 古製ハ此ゴトク甚粗製也、今製ノ蒸羊羹ノ類ニテ、古ノ砂糖羊羹也』と『今製煉羊羹 赤小豆一升ヲ煮テ…乾天二本半ヲ煮テ漉之、煮詰製スヲ煉羊羹ト云』(価格は煉羊羹一棹 銀二匁に対し蒸羊羹一棹 銀一匁)/『菓子話船橋』(1841)の『蒸羊羹 赤小豆一升 唐雪白砂糖八百目 小麦御膳粉七十目 久助葛廿匁…砂糖を煮詰めて、其中へ煮あげたる小豆の漉粉を、少しづゝ入れてよく煉りあはせ、火をおろして、分量の小麦の粉葛ともに岡まぜにして能く煉りて、蒸籠の中へ布をしいて入れ、上を平にして一時程蒸すなり』/『蜘蛛の糸巻』の『寛政の始 大久保主水の菓子杜氏のはて喜太郎といひし者、日本橋の新道の小家…煉羊羹といふ物を製しはじめ』 重み3
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2026-08-20 支持 C→C
明治の歌舞伎脚本は『かりんとうや』を配役に立て、夜の売り歩きの姿を具体的に書いている
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構成素材

この料理を構成する素材の成立史へ。「成立史は準備中」の素材はまだページがありません。

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