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燒鵝 時期 C起源説 C検証済

確度は2軸: 時期=成立時期の固さ/起源説=発祥譚(説)の固さ(A〜Dの4段階・別々に持つ)。確度とは?→

暴かれた通説あり出典で反証された通説を抱える料理です(真の起源は未確定のことが多い)。

中国(広東・香港) ・ 『燒鵝』の語の初出級用例は元雜劇(李致遠『還牢末』第四折・14世紀)。丸ごと架して焼き最後に蜜を塗る現行技法の初出級レシピは明『竹嶼山房雜部』養生部(16世紀初)。広州での定着を示す最古級の一次記録は清・雍正九年(1731)『廣東通志』の街名『燒鵝街』。燒臘(焼味)店という商業業態としての成熟は清末民初の広州〜戦後香港 ・ 成立年代 1500–1850 ・ 主役食材 ガチョウ

記章(DB由来の作図・装飾/監修・認証ではない)|起源説確度C・検証済C記章(DB由来の作図・装飾)

広東の燒鵝には「南宋の宮廷で燒鵝を焼いていた料理人が崖門の敗戦で落ち延びて伝えた、700年の歴史をもつ」という有名な起源話がある。だがその話が土台にする「広東には鴨がいないので鵝で代用した」という筋書きは、鵝の焼き物と鴨の煮物を並べて売っていた南宋の都の記録と噛み合わない。

検証ハイライト 俗説 → 判定 → 根拠

主な説
燒鵝(シウンゴー)=ガチョウを丸ごと吊るし炭火で炙り、麦芽糖の掛け汁で皮を飴色に仕上げる広東の焼き物。史料は単一の発祥点でなく、次の多層の文献初…
判定
諸説あり(対立説を併記)
主な根拠
支持李致遠『都孔目風雨還牢末』(元雜劇・14世紀/維基文庫全文)第四折「【阮小五云】燒鵝倒也好配酒」=『燒鵝』の語の文献初出級用例(元代)重み5 支持宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(明・16世紀初/四庫全書本・維基文庫全文)「燒鵝〔三制、即鵝炙〕一用全體遍挼鹽酒縮砂仁花椒葱,架鍋中燒之,稍熟以香油漸澆,復燒黄香,一塗醬葱椒澆油燒,一塗之以蜜燒」/「燒鴨〔二制〕一用全體以熟油鹽少許遍沃之,腹填花椒葱,架鍋中燒熟…」/「炙鴨」=丸ごと架して焼き、油を掛け、蜜を塗って仕上げる現行の燒鵝・燒鴨技法を記す最古級のレシピ重み5

史料が示すこと: 複数の史料が、この通説支持しない(俗説として退けられる)。 なお「南宋崖門の宮廷御廚伝来説(古井燒鵝『700年の歴史』/烤鴨を鵝に替えて生まれたとする起源譚)」という通説一次史料・学術文献で退けられている。

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3ゲート

食材入手ゲート
ガチョウ(長江下流で前5000年に家畜化=PNAS 2022/食材ゲート台帳に登録済)・麦芽糖・醤油はいずれも中国在来。外来の律速食材はなく食材ゲートは成立年を縛らない
調理技術ゲート
叉や鉤で丸ごと吊るし炭火の炉(挂炉/明炉)で炙り、麦芽糖(蜜)の掛け汁で皮を飴色に仕上げる。この『全體を架して燒き、最後に蜜を塗る』技法は明『竹嶼山房雜部』養生部卷三の『燒鵝〔三制、即鵝炙〕』に既に記されており、技術は近代を待たない
場ゲート
広州・香港の燒臘(焼味)店という商業業態=店頭に吊るした鵝を客の指す分だけ切り分けて売る。清・雍正『廣東通志』(1731)に広州城内の街名『燒鵝街』が見え、18世紀初頭の広州で語が地名になるほど日常化していた。香港では戦後、工業地区化した荃灣・深井の街道沿いに炭焼き燒鵝の路傍店が生まれて名物化する(裕記=1958年に工場労働者向けの大牌檔として創業。深井で最も古い燒鵝店は裕記と陳記でともに1950年代からの営業とされる)。律速はこの場(業態)

成立年代と食材入手ゲート

食材入手(544年・在地/到来)が律速=物理的な下限。成立年代の帯はそれ以降にある(場ゲートは年に乗らない構造ゲート)。

成立年代と成立ゲート成立 1500–1850食材入手・律速 544(在地/到来/醤油)4131981
  • 食材入手(流通/在地/加工の経路を内包)
  • 太線=律速(最も遅い=成立を縛る)
  • 細線=既に充足
  • 場ゲートは年に乗らない構造ゲート(図外)

起源説

諸説併記

元代の語・明代の技法を受け継ぎ、清代の広州で商業料理として定着した説(多層の文献初出で年代窓を締める) C

燒鵝(シウンゴー)=ガチョウを丸ごと吊るし炭火で炙り、麦芽糖の掛け汁で皮を飴色に仕上げる広東の焼き物。史料は単一の発祥点でなく、次の多層の文献初出として現れる。(1)鵝の焼き物そのものは南宋の都市で既に商品化=『夢粱錄』卷十六(1274)が臨安の街売り調理食品…続きを読む

燒鵝(シウンゴー)=ガチョウを丸ごと吊るし炭火で炙り、麦芽糖の掛け汁で皮を飴色に仕上げる広東の焼き物。史料は単一の発祥点でなく、次の多層の文献初出として現れる。(1)鵝の焼き物そのものは南宋の都市で既に商品化=『夢粱錄』卷十六(1274)が臨安の街売り調理食品として『炙鵝』『白炸春鵝』『八糙鵝鴨』を列挙する。(2)『燒鵝』という語の初出級用例は元雜劇=李致遠『都孔目風雨還牢末』第四折『燒鵝倒也好配酒』(14世紀)。(3)現行技法(全体を架して焼き、油を掛け、最後に蜜を塗って照りを出す)を記す最古級のレシピは明・宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(16世紀初)の『燒鵝〔三制、即鵝炙〕…一塗之以蜜燒』。ただしこれは松江華亭(江南)の書で広東固有ではない。(4)広東での定着を示す最古級の一次記録は清・雍正九年(1731)の官撰『廣東通志』卷十七で、広州城内の街名として『燒鵝街』が現れる=18世紀初頭の広州で燒鵝の語が地名になるほど日常化していた(街名の由来が燒鵝の売買にあるかは未確認)。(5)清・袁枚『隨園食單』(1792)は『杭州燒鵝為人所笑,以其生也』と店売り燒鵝に触れる。したがって現行の広東燒鵝は、少なくとも明代までに中国で確立した丸焼き+蜜掛け技法の系譜上にあり、それが広州の燒臘(焼味)店という商業業態に載って洗練された、と捉えるのが史料に即す。食材(ガチョウ・麦芽糖・醤油)はすべて中国在来(ガチョウは長江下流で前5000年に家畜化)で外来食材の到来に縛られず、律速は店頭で吊るし焼きを回す商業業態=場ゲート。業態としての成熟は親の焼味#1778と同じく清末民初の広州〜戦後香港の窓に置かれる。

反証

南宋崖門の宮廷御廚伝来説(古井燒鵝『700年の歴史』/烤鴨を鵝に替えて生まれたとする起源譚) D

『1279年の崖門(崖山)海戦で南宋が滅びた際、宮廷で燒鵝を担当していた御廚が娘を連れて銀洲湖西岸の仙洞村へ落ち延び、宮廷秘伝の燒鵝で店を開き、娘が古井へ嫁いで秘方を伝えた。広東には杭州の鴨がいなかったので鵝に替え、こうして広東の燒鵝が生まれた=700余年の歴…続きを読む

『1279年の崖門(崖山)海戦で南宋が滅びた際、宮廷で燒鵝を担当していた御廚が娘を連れて銀洲湖西岸の仙洞村へ落ち延び、宮廷秘伝の燒鵝で店を開き、娘が古井へ嫁いで秘方を伝えた。広東には杭州の鴨がいなかったので鵝に替え、こうして広東の燒鵝が生まれた=700余年の歴史をもつ』とする起源譚。広東省人民政府ポータルの嶺南名菜紹介や飲食記事が反復し、2022年の古井燒鵝の広東省級無形文化遺産登録(編號Ⅷ-117)でも語られる。だが史料は支えない。(1)伝承はいずれも『相傳』で、宋末〜明の同時代史料に裏づけが確認できない(維基百科の記述も典拠は2014年の新聞グルメ記事1本)。(2)『燒鵝』の語自体の文献初出級用例は元雜劇(14世紀)で、南宋を遡る用例が確認できない=『南宋宮廷の燒鵝』を記録した同時代文献は見当たらない(不在の証拠)。(3)物語の前提『広東には鴨がなく鵝に替えた/宋の名菜は烤鴨だった』が史料と合わない。南宋臨安の街売り食品を列挙する『夢粱錄』卷十六(1274)には『炙鵝』『白炸春鵝』『八糙鵝鴨』『熝鴨』が並び、鵝の焼き物は鴨と並んで南宋の都市で普通に売られていた=鵝への置換を必要とする状況自体が存在しない。(4)現行技法(丸焼き+蜜掛け)を記す最古級のレシピは明・宋詡『竹嶼山房雜部』(16世紀初)で、しかも江南(松江華亭)の書。技法の記録は南宋宮廷でなく明代の江南に現れる。(5)崖山の落人が名物を伝えたという筋立ては嶺南各地の名物起源譚に共通する定型モチーフで、近年は地域ブランド化・非遺申請の物語としても機能している(創られた伝統)。よって本説はD=出典不明・単独説として隔離する。ただし『広東で鵝を焼く食文化が古い』ことまでを否定するものではなく、否定されるのは『南宋宮廷の燒鵝が崖門経由で古井に直伝され、それが広東燒鵝の起源である』という特定の系譜主張である。

解説

一羽まるごと、炭火の前に

燒鵝(シウンゴー)は、ガチョウを一羽まるごと焼き上げる広東の焼き物である。塩や醤油で下味をつけた鵝を叉や鉤に架け、炭火の炉(挂炉・明炉)に吊るして炙る。麦芽糖を溶いた掛け汁を浴びせて焼くと、皮は飴のような色に染まって艶を帯びる。焼き上がった一羽は店先に吊るされ、客の指した分だけを包丁で落として白飯に載せて出す。

使うものはどれも中国の食卓に古くからある。ガチョウは長江下流で紀元前五千年ごろには家禽として飼われていた古い家畜で、南の水郷でも身近な鳥だった。皮に艶を出す麦芽糖も、下味に使う醤油も、同じく中国で長く作られてきた。どれも南の市場でいつでも手に入るものだった。

焼いて、油を掛けて、最後に蜜を塗る

いま炉の前で行われている手順は、明の書物にすでに書きとめられている。宋詡が編んだ『竹嶼山房雜部』養生部卷三(十六世紀初め)には「燒鵝〔三制、即鵝炙〕」として三通りのやり方が並ぶ。全体に塩と酒、縮砂仁・花椒・葱をもみ込んで架けて焼き、半ば火が通ったところで香油を少しずつ掛けながら焼き色をつける。二つめは醬と葱・椒を塗って油を掛け直して焼く。そして三つめが「一塗之以蜜燒」——蜜を塗ってもう一度焼く。丸ごと架ける、途中で油を掛ける、仕上げに蜜で照りを出すという骨格が、この三行に揃っている。

ただしこの書は松江華亭、いまの上海の西にあたる江南の人の手になるもので、広東の料理書ではない。丸焼きに蜜を塗る技法そのものは、広東だけの発明ではなかった。

語のほうはさらにさかのぼる。元の雜劇、李致遠『都孔目風雨還牢末』の第四折に「燒鵝倒也好配酒」——燒鵝はやはり酒に合う——という台詞がある。十四世紀には、説明を要さない酒の肴の名として通っていた。

広州の街の名になるまで

広東でこの語が根づいていたことを示す古い記録は、清・雍正九年(一七三一)の官撰『廣東通志』卷十七に現れる。広州の八旗駐防区に置かれた鑲白旗協領の所在地として「燒鵝街」という街名が挙がっているのである。役所の住所として通用するほど、燒鵝の名は十八世紀初めの広州の街に馴染んでいた。もっともこの街名が燒鵝の売買に由来するのかどうかまでは分かっていない。

同じ十八世紀の末、袁枚は『隨園食單』の羽族單で燒鵝に触れている。ただし褒めてはいない。「杭州燒鵝為人所笑,以其生也」——杭州の燒鵝は生焼けだと笑われる、家で自分の板前に焼かせるほうがよい。裏を返せば、この頃には燒鵝は店で買う商品であり、店ごとの出来不出来が話題になる程度には出回っていた。

そして燒鵝を今の姿にしたのは、料理そのものより店の形のほうである。ガラス越しに丸ごとのガチョウを何羽も吊るし、注文のたびに切り分ける燒臘(焼味)店という商いが、清末から民国にかけての広州で成熟し、香港へ渡っていく。毎日いくつもの炉を焚いて焼き、通りがかりの客に一人前ずつ切り売りする——その商いに載って、燒鵝は日々の外食の一皿になった。香港では新界の深井(荃灣)に炭焼きの燒鵝店が集まり、名物として知られるようになる。なかでも古いのは裕記と陳記で、裕記は一九五八年に工場地帯で働く人びと相手の大牌檔として始まり、二軒とも一九五〇年代からの営業とされる。

検証ストーリー

広東省江門市新会の古井鎮は、燒鵝の里として知られる。その燒鵝には、広東省人民政府のポータルサイトが嶺南の名菜として紹介するほど広く行き渡った起源話がついている。いわく——七百余年前、崖門(崖山)の海戦で南宋が滅んだとき、宮廷で燒鵝を焼いていた御廚が娘を連れて銀洲湖西岸の仙洞村へ落ち延びた。彼は宮廷秘伝の燒鵝で店を開き、娘は古井へ嫁いで秘方を伝えた。杭州では鴨を焼いていたが、広東には鴨がいなかったので鵝に替えた。こうして広東の燒鵝が生まれ、七百年の歴史をもつことになった、と。二〇二二年に古井燒鵝が広東省級の無形文化遺産(編號Ⅷ-117)に登録された際にも、この筋書きが語られている。

だが、この話を伝える文章はどれも「相傳(言い伝えでは)」で始まり、その先に史料の名を挙げない。中文版ウィキペディアが挙げる典拠も、二〇一四年の新聞のグルメ記事一本である。宋末から明にかけての同時代の文献に、この落人と秘方の話を記したものは見あたらない。それどころか「燒鵝」という語じたい、さかのぼれるのは元の雜劇までで、南宋を遡る用例に行き着かない。南宋の宮廷で燒鵝が焼かれていたことを書き残した同時代の文献は、知られていない。

さらに具合が悪いのは、物語の要になっている「鴨から鵝への置き換え」のほうである。南宋の都・臨安の飲食業を店種ごとに書き並べた吳自牧『夢粱錄』卷十六(一二七四年)には、盆に載せて酒屋を回り歩く売り子の商品が列挙されている。炙雞、八焙雞、紅熝雞、脯雞、熝鴨、八糙鵝鴨、白炸春鵝、炙鵝——鵝の炙り物も、鵝と鴨をまとめて煮た品も、鴨の煮物も、同じ行に並んで売られていた。南宋の都市で、鵝の焼き物は鴨と並ぶありふれた商品だったのである。鴨が手に入らないから鵝で代用した、という筋書きが成り立つ余地は、そもそもない。

技法の記録がどこに残ったかも、伝説の向きとは合わない。丸ごと架けて焼き、油を掛け、仕上げに蜜を塗るという現行の手順が書きとめられるのは、明・宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三(十六世紀初め)である。しかもそれは南宋の宮廷ではなく、松江華亭という江南の士人の家の書物だった。

崖山の落人が名物を伝えたという筋立ては、嶺南各地の名物起源譚に繰り返し現れる型でもある。王朝の滅亡という誰もが知る事件に土地の味を結びつければ、由緒は一気に七百年になる。近年はそれが地域ブランドや無形文化遺産の申請を支える物語としても働いている。後世に作られた伝統の、よくできた一例である。

それでも、否定されるのは「南宋宮廷の燒鵝が崖門経由で古井に直伝され、それが広東燒鵝の起源である」という特定の系譜だけだと言い添えておきたい。広東で鵝を焼いて食べる文化が古いことまでが崩れるわけではない。元の雜劇には酒の肴としての燒鵝が出てくるし、明の書物には現行の技法が載っている。一七三一年の広州には「燒鵝街」という街名があり、一七九二年の袁枚は店売りの燒鵝の出来を論じている。七百年の秘伝という物語を外しても、燒鵝の来歴は十分に古く、そして史料の上でたどることができる。

検証ログ 追記専用の監査証跡

日付結果確度主張 / 出典更新者
2026-08-01 支持 未入力→C polisher-1
2026-08-01 支持 C→C
現行技法(全體を架して燒き、油を掛け、最後に蜜を塗って照りを出す)の初出級レシピは明・宋詡『竹嶼山房雜部』養生部卷三の『燒鵝〔三制、即鵝炙〕…一塗之以蜜燒』=16世紀初。技法は近代を待たず、また広東固有でもない(同書は松江華亭=江南の書)
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2026-08-01 支持 C→C
広東での定着を示す最古級の一次記録=清・雍正九年(1731)官撰『廣東通志』卷十七 公署志が広州城内の街名として『燒鵝街』(鑲白旗協領の所在地)を記録。18世紀初頭の広州で『燒鵝』の語が地名になるほど日常化していた
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2026-08-01 反証 未入力→D
古井燒鵝の『南宋崖門の宮廷御廚が持ち込み700余年の歴史』説(広東省政府ポータル・非遺ナラティブ・飲食記事が流布)は史料が支えない。(a)伝承は『相傳』のみで宋末〜明の同時代史料に裏づけが確認できない、(b)『燒鵝』の語の初出級用例は元雜劇(14世紀)で南宋を遡る用例が確認できない、(c)物語の前提『広東に鴨がなく鵝に替えた/宋の名菜は烤鴨』は南宋『夢粱錄』卷十六(1274)が臨安の街売り食品に『炙鵝』『白炸春鵝』『八糙鵝鴨』『熝鴨』を並記していることと合わない=鵝の焼き物は南宋の都市で鴨と並んで普通に売られていた
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2026-08-01 不明 D→D
起源譚の流布経路: 広東省人民政府ポータルの嶺南名菜紹介が『700多年前…南宋宮廷で燒鵝を担当した御师が娘を連れて仙洞村へ落ち延び…』と記し、2022年の広東省級無形文化遺産登録(古井燒鵝・編號Ⅷ-117)でも語られる。維基百科の記述の典拠も2014年の新聞グルメ記事1本のみ=地域ブランド化と結びついた創られた伝統の型
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2026-08-01 支持 C→C
香港・深井(荃灣)が戦後に炭焼き燒鵝の名物地となった経緯(場ゲートの香港側の裏づけ)
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2026-08-01 不明 C→C
深井の燒鵝店群『陳記1979年創業』という具体年は史料が支えない
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構成素材

この料理を構成する素材の成立史へ。

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