ものがたり / 伝播紀行

貴人の由緒を着せられた麺 ―― 華僑が港町に運んだ中国麺が、ラーメンとチャジャンミョンになるまで

伝播紀行 登場する料理 4品

日本のラーメンも、韓国のチャジャンミョンも、もとをたどれば華僑が港町のチャイナタウンに持ち込んだ庶民の中国麺である。ところが国民食になったあとで、片方には水戸黄門が、もう片方には西太后の宮廷や『元祖の店』が由緒として結びつけられた。屋台生まれの麺に、あとから貴い出自が着せられていく物語をたどる。

日本のラーメンと、韓国のチャジャンミョン。どちらもいまや押しも押されもせぬ国民食だが、生まれはそれほど古くない。二つとも十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、中国大陸から海を渡ってきた庶民の麺料理である。しかも別々の中国麺が源で、互いが親戚というわけではない。共通するのは、運び手が港町のチャイナタウンに暮らした華僑だったこと、そして国民食になったあとで、屋台生まれには不釣り合いな『貴い由緒』を着せられたことである。

まずラーメン。土台にあるのは、小麦の生地を撚り伸ばして麺線を引き出す中国北方の手延べ麺の技だ。この拉麺の技法が文献に最初に現れるのは明代、一五〇四年の食養生書『宋氏養生部』で、蘭州牛肉麺のようなご当地麺として輪郭を整えるのは二十世紀初頭のことである。この中国系の汁そばを、横浜中華街ゆかりの中国人料理人を抱えた浅草・来々軒が一九一〇年に『南京そば』として供したのが、現行ラーメンの直接の起点とされる。戦後はアメリカからの輸入小麦と粉食奨励を追い風に、屋台から専門店へと広がり、一九五八年の即席麺を経て、ラーメンは日本中の食卓に根を下ろした。

ところがこの新しい料理に、江戸時代の由緒が持ち込まれる。水戸藩主・徳川光圀(水戸黄門)が一六九七年に中華風の汁そばを口にした、これこそ日本初のラーメンだ、という話である。だが食物史家バラク・クシュナーの『ラーメンの歴史学』はこれを退ける。光圀の日記が記すのは蕎麦であってラーメンとは別物であり、現行ラーメンの系譜ともつながらない。おまけに室町時代の『蔭涼軒日録』には、一四八八年に京都の禅僧がかん水を用いた中華麺『経帯麺』を客にふるまった記録があり、光圀より二百年も早い。『日本初』という肝心の看板さえ立たないのである。

もう一方のチャジャンミョンは、山東省の炸醤麺から分かれた韓国の一皿だ。炸醤麺は黄醤(発酵させた大豆の味噌)を油で炒めて肉味噌にし、茹でた小麦麺にからめる料理で、小麦も大豆も中国北方に古くからある食材でできている。料理として姿を現すのは清朝末期、十九世紀末の華北で、起源地は山東とも、北京の八旗子弟の暮らしからともいわれ、いまも二つの系統説が併存する。この炸醤麺を、開港期の一八九〇年代に山東から仁川へ渡った華僑が持ち込んだ。韓国ならではの艶やかで甘く黒いチュンジャンは、華僑の王松山が一九四八年にソウルで醤油工場(永和醤油)を興し、一九五〇年代半ばにカラメルを混ぜて生み出したもので、これが本家との分かれ目になった。朝鮮戦争のあと、安価な中華の一皿として全国に広まっていく。

チャジャンミョンにも、由緒をめぐる物語がまとわりつく。仁川チャイナタウンの老舗『共和春』(一九〇五年ごろ創業)を発祥の店とする通説である。だが第一世代の華僑料理人の証言や仁川市の記録によれば、共和春が開く前から複数の清国料理店がすでにチャジャンミョンを売っており、誰が始めたかは特定できない。共和春は『チャジャンミョン』の名で売った最初の店として『元祖』と取り違えられたにすぎない。海の向こうの炸醤麺そのものにも、よく似た話がある。一九〇〇年の義和団事変で西安へ逃れた西太后(慈禧太后)が炸醤麺を気に入り、宮廷に料理人を召し抱えて広めた、という宮廷起源譚だ。だが炸醤麺は西太后の西安行きより前からすでに庶民の食べ物であり、同時代の裏づけもない。研究者はこの譚を採らず、実際の由来を清末の庶民の暮らしに置く。

二つの麺がたどった道は、よく似ている。港町の華僑が持ち込んだ庶民の中国麺が、移った先で国民食になり、あとから貴人や名店の由緒を着せられた。水戸黄門も、西太后も、『元祖の店』も、料理が有名になってから結びつけられた飾りである。飾りを外したところに残るのは、労働者や料理人が海を越えて運び、移った土地の味へと作り替えていった、地味だが確かな移動の記録のほうだ。

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