ものがたり / 伝播紀行

炊き込み米の一族 ―― ペルシアの鍋から交易路をたどり、四つの土地で兄弟になった米飯

伝播紀行 登場する料理 4品

インドのビリヤニ、ウズベキスタンのプロフ、東アフリカのピラウ、北インドのプラオ。どれも「わが土地の英雄が編み出した」「大昔からここにあった」と誇られてきたが、その多くは後世の作り話である。四皿は、ペルシアで整えられた一つの米の炊き方が交易と征服の道を伝わり、別々の土地に根づいた対等な兄弟だ。元祖を名乗れる一皿も、ただ一人の発明者もいない。

一族の幹はペルシアにある。米を一度茹でてから蒸し上げ、あるいは油脂で炒めてから吸水させて粒を一つひとつ立たせる炊き方――ペルシア語でポロウと呼ばれるこの技法が、幹である。アッバース朝期(九〜十三世紀)には料理書に姿を見せ、十三世紀にアレッポのイブン・アル=アディームが著した『キターブ・アル=ウスラ』は、米と肉とひよこ豆を使う現代のピラフによく似た手順を記している。このポロウという語から、pilaf、pulao、pilav、plov といった各地の名が枝分かれした。技法は交易路と征服を伝って、西はスペイン、東はアフガニスタンまで広がっていく。四つの兄弟は、そのそれぞれの行き先で生まれた。

北へ向かった枝は、中央アジアのオアシス都市でプロフになった。サマルカンドやフェルガナでは灌漑で育てた米が使え、肉と人参を炒めたズィルヴァクの上に米を重ね、一つの鍋で吸水させて炊き上げる作法が定着した。ブハラ出身の医学者アヴィセンナ(十一世紀前半に没する)は、その医学書に米料理の調理と滋養を書き残している。これは伝説ではなく確かな記述で、遅くとも十一世紀の初めには当地に米の炊き込み料理があったことを教えてくれる。

南アジアに届いた枝は、ムガル宮廷でビリヤニとプラオという二皿に分かれた。ペルシア風の炊飯が在来の香辛料米飯と出会い、宮廷の厨房で磨かれていく。十六世紀末、アクバル帝の治世を記録した『アイーニ・アクバリー』には、蒸し焼き(ダム)の米飯と、挽肉を使うプラオのレシピがそろって載る。ビリヤニは米と肉を層に重ね、鍋を密封して蒸し上げる濃い仕立て。プラオは米を香味油脂で炒めてから出汁で炊く、汁気の淡い素朴な仕立て。同じペルシアの祖型から南アジアで分かれた、味わいの異なる姉妹である。

インド洋を渡った枝は、スワヒリ海岸でピラウになった。アラブ・ペルシア・インドの商人が行き交う交易のなかで炊飯の作法が伝わり、十一世紀にはペンバ島で米が在地の主食に育っていた。クミンやカルダモン、クローブといった香辛料とともに、単鍋で吸水させて炊き込むのがこの海岸の流儀である。ザンジバルでクローブが栽培されるのは十九世紀に入ってからで、それ以前の香辛料はインド洋交易が運んできた品だった。宣教師クラプフが編んだスワヒリ語辞書(一八八二年)は「Pilao」を見出しに立て、「インドの料理」と注記している。

こうして四皿は、同じ幹から分かれた四本の枝になった。どれかが他を生んだのではない。ペルシアの炊き方という一本の技法が、それぞれの土地の米と香辛料と火加減に出会って、別々の姿に育った。だからこの一族に本家はなく、四つはみな対等に並ぶ兄弟である。

もっとも、それぞれの土地には、土地の誇りを込めた物語がまとわりついている。ビリヤニには、シャー・ジャハーン帝の妃ムムターズ・マハルが栄養不良の兵士を見かねて肉飯を考案させた、という発祥譚が伝わる。愛される逸話だが、それを裏づける同時代の宮廷史料は見当たらず、伝説としてのみ語り継がれてきた。古代タミルの肉飯(オーン・ソール)を祖にして「ビリヤニは古代インド生まれだ」とする説もあるが、これは米と肉を炊くという料理ジャンルの古さと、層状に重ねて蒸すという様式そのものの成立とを取り違えたものだ。ティムールの軍が持ち込んだという説にいたっては、当時の中央アジアにその料理の記録がない。

プロフにも英雄譚がある。アレクサンドロス大王が中央アジアで米料理に感銘し、故郷マケドニアへ持ち帰ったという伝説だ。考古学者ジョン・ボードマンはこれを後世の作り話と断じている。「palov osh」を食材の頭文字を並べた頭字語と読み、ブハラの王子の恋煩いを医師アヴィセンナが特製の米料理で治した、という命名の物語も広く語られる。だがこれは名前に後から付けられた民間語源にすぎない。ただし、アヴィセンナが実在の医学書に米料理を書き残したこと自体は本当で、そちらは作り話ではなく、十一世紀初めの年代を教えてくれる確かな手がかりのほうに属する。

プラオをめぐっては、食物史家K.T.アチャリヤが三〜六世紀のサンスクリット文献に同じ名の語があるとして、古代インド土着起源を唱えた。しかし食物史家チャールズ・ペリーは、その語が本来「生の肉や魚」あるいは「萎びた中身のない穀粒」を指すもので、ピラフではないと論破した。文献に最初に現れた同じ綴りの語を、料理そのものの発祥と取り違えた誤りである。

ピラウには、ペルシア由来だ、いや純粋なインド由来だ、アラブ由来だ、と単一の系統に帰そうとする声がついてまわる。ところが植民地化以前のスワヒリ都市ソンゴ・ムナラの遺跡から出た調理の残り香は、米・ココナッツ・香辛料という複数の交易品が一つの食卓で溶け合っていたことを示していた。ピラウは単一の民族が発明した料理ではなく、インド洋交易が運んだものをスワヒリの都市が総合した一皿である。語源のポロウ(ペルシア)も香辛料(インド・アラブの交易)も、合流した数ある要素の一つにすぎない。

四皿を貫くのは、記録の初出を発祥と読み替えてはならない、という一点である。『アイーニ・アクバリー』の十六世紀、クラプフ辞書の一八八二年、英語の pilau が現れる一六〇九年――こうした年は、その土地の言葉や書物に料理が姿を見せた年であって、生まれた年でも、ましてただ一人が発明した年でもない。四皿に共通するのは、ペルシアで整えられた米の炊き方が、隊商路とインド洋の帆と宮廷の厨房を伝って、それぞれの土地の米と香辛料と火加減に出会い、別々の姿に育ったという一つの流れだ。この一族に本家はいない。四つはみな、同じ祖から分かれて対等に並ぶ兄弟である。

← ものがたり一覧へ戻る