ものがたり / 伝播紀行

葉に巻かれた一族 ―― ブドウの葉からキャベツの葉へ、オスマンの巻き物が結んだ食卓

伝播紀行 登場する料理 4品

サルマ、ホルブツィ、ゴウォンプキ、カウドルマル——バルカンから北欧まで、葉で肉と米を巻いて煮る料理が帯のように連なっている。土地ごとに「うちの固有の料理」「古い英雄が始めた」という誇らしい起源話がまとわりつくが、この一族の背骨には、オスマンの食卓で体系づけられた巻き物サルマ/ドルマがある。祖の座を競うのではなく、ひとつの「葉で巻いて煮る」しぐさが版図をたどり、各地の葉と肉と煮汁のなかで別々の顔になっていった物語である。

黒海の北岸から、バルカンの山あい、そしてバルト海の向こうの北欧まで。葉で肉と米を包み、鍋でことこと煮る料理が、ヨーロッパの東半分に帯のように連なっている。バルカンとアナトリアのサルマ、ウクライナのホルブツィ、ポーランドのゴウォンプキ、そしてスウェーデンのカウドルマル。包む葉はブドウの葉だったりキャベツの葉だったり、煮汁は酸味のきいた発酵液だったりトマトだったりと土地ごとに違っても、葉のふちを折り込んで餡を閉じ込め、崩れないように鍋に並べて煮るしぐさは、驚くほどよく似ている。

この一族を結ぶ糸の一本は、やはり名前にある。サルマはトルコ語の「巻く(sarmak)」から来た言葉で、もう一つの近い料理ドルマは「詰める(dolmak)」を意味する。スウェーデンのカウドルマル(kåldolmar)は、そのドルマに「キャベツ(kål)」を冠した借用語で、名前の後半にトルコ語がそのまま残っている。ウクライナのホルブツィ(голубці)とポーランドのゴウォンプキ(gołąbki)は、どちらも「小鳩」を意味する言葉だ。異なる言語のあいだで、同じ料理が同じ発想で名づけられ、あるいは同じ音を貸し借りしている。

背骨をたどると、最も古い文字の記録はオスマンの食卓にたどり着く。ドイツ人ハンス・デルンシュヴァムが一五五〇年代のイスタンブル滞在を綴った旅日記には、ドルマやサルマが日常的に食べられ、サルマを巻くための生のブドウ葉が市中で売られていた、と記されている。これがサルマの最も古い文献記録である。やがて一六四〇年にはキャベツで巻いたサルマがイスタンブルで売られ、一六六〇年には富裕層の宴の献立にも並んだ。民族植物学の研究(Dogan ほか、二〇一五年)は、こうした一次史料を集めて、サルマがオスマン期に祝祭の料理として体系づけられていった様子を描き出している。冬になってブドウの葉が手に入らなくなると、人々は代わりにキャベツの葉で巻いた——このブドウ葉からキャベツ葉への持ち替えこそが、料理が北へ、内陸へと広がる扉を開いた。キャベツは長い冬を越す保存野菜として、バルカンから東欧、北欧の畑まで根を張った在来の作物で、巻くための葉はどの土地にも手近にあったのである。

ここで一つ、よくある思い込みをほどいておきたい。「葉で包む料理は古代ギリシャまで遡る」という語りがしばしば聞かれる。確かに、イチジクの葉でチーズや魚を包んで煮た thrion という料理が、アリストパネスの喜劇(前四二五年)に顔を出し、後の文人アテナイオスも書き留めている。包む技法そのものは、なるほど古い。だが thrion から現行のサルマまでのあいだには、およそ一九〇〇年ぶんの史料の空白が横たわっていて、両者を一本の線でつなぐ証拠はない。研究者たちも、サルマの歴史記述を十六世紀のオスマン期から書き起こす。ある料理が文献に初めて現れた年は「遅くともその頃には存在した」という下限を教えるだけで、生まれた瞬間を指し示すわけではない。古代の包葉料理はサルマの遠い先例ではあっても、直接の祖型だと言いきれるものではないのだ。

祖型がオスマンの食卓で形をとったあと、この巻き物は帝国の版図と交易の道をたどって各地へ渡り、土地の葉と肉と煮汁のなかで別々の顔になっていった。東欧では、ホルブツィやゴウォンプキが生まれた。今でこそこれらはトマトソースで煮込む料理として親しまれているが、それは新しい装いにすぎない。トマトはアメリカ大陸からの新参者で、ウクライナやポーランドの畑に根づくのは十九世紀のこと、トマトソース仕立てのホルブツィが定着するのは一九二〇年代まで下る。それ以前の古い層では、キャベツ巻きは酸味のきいた発酵液(クワス)で煮られ、ポーランドでは発酵させたキャベツの葉で巻き、亜麻仁油やキノコのソース、脂身をかけて食べた。降誕祭の前夜には、そば粉やジャガイモを詰めた精進のゴウォンプキが並んだ。ポーランドのゴウォンプキという名は、十九世紀にウクライナのホルブツィ(hołubci)から借りたものと考えられていて、二つの「小鳩」は言葉の上でもつながっている。

そして各地で、その土地ならではの誇らしい起源話が花を咲かせた。多くは、料理を英雄や古い王朝、あるいは「うちの固有の発明」に結びつける物語である。ウクライナには「ホルブツィは鳩(holub)に形が似ているから名づけられた、我らの固有の料理だ」という土着の発祥譚がある。だが葉で包む料理は地中海からオスマン圏に広く分布する汎地域的な現象で、ウクライナ単独の発明を示す独立した史料はない。「小鳩」という名も、形の連想から来た民間語源にすぎず、発祥の証拠にはならない。言語学者のあいだにはむしろ、「キャベツ」を意味するペルシア語 kalam や古アルメニア語 kałamb が、音の連想で「小鳩」へと転じたのではないか、という見方すらある。二〇二三年にホルブツィがウクライナの無形文化遺産に登録されたことは、この料理がいかに深く国民に愛されているかを物語るが、それは普及の証しであって、発祥の証明ではない。

ポーランドのゴウォンプキにも、よく似た物語がある。「中世の貴族が饗宴で、鳩を丸ごとキャベツに包んで供したのが始まりだ」という、いかにも古めかしく誇らしい起源譚だ。しかしゴウォンプキという語が十九世紀にウクライナから借用された記録がある以上、ポーランド固有の中世発祥という筋書きは語彙の歴史と噛み合わない。この料理の起源は、実のところ学問の世界でも決着していない。名前を「鳩(gołąb)」の指小形とみて土地に自生した料理だとする在来スラヴ説(言語学者ファスマー)と、東方の「キャベツ」を指す言葉からの借用が民間語源で「鳩」に転じたとするオリエンタル借用説(言語学者スタホフスキ、二〇一六年)とが対立したまま、どちらにも軍配は上がっていない。近代のゴウォンプキ——米と挽き肉を詰める形——が料理書に定型として現れるのは十九世紀で、一八六〇年のチフィェルチャキェヴィチョヴァの料理書や、一八九四年のマルチシェフスカの料理書がその初期の記録である。単一の発祥を語る誇らしい物語は、この宙づりの現状の前では立ちゆかない。

北の果て、スウェーデンのカウドルマルには、とりわけ絵になる伝来譚がまとわりついている。ポルタヴァの戦い(一七〇九年)に敗れたスウェーデン王カール十二世は、オスマン領のベンデルに数年間亡命し、一七一五年に帰国した。その王が、トルコの巻き物料理を故国に持ち帰った——そう語られてきた。だが史料をたどると、話はもう少し込み入っている。ドルマを伝えたのは王その人ではなく、王に随伴して一七一六年から一七三二年までストックホルムに滞在した、王に金を貸したオスマンの債権者たちだったとみるのが有力だ。スウェーデン語で「ドルマ」の語が文献に初めて現れるのも、長らく信じられてきた一七五五年ではない。一七五五年に出たカイサ・ヴァリの家政書の初版に載っているのは、米を使わない「キャベツのルラード(Roullade af Kål)」という別物で、米入りのドルマが姿を見せるのは一七六五年の増補版になってからだ、とスウェーデン・アカデミーの辞典は教えている。王が凱旋の荷にドルマを忍ばせていた、という絵は美しいが、文献はそれを裏づけない。

こうして四つの食卓を並べてみると、それぞれの誇らしい起源話——古代ギリシャの厨房、ウクライナの鳩、ポーランドの中世貴族、スウェーデンの亡命王——が、どれも一つの土地や一人の英雄に手柄を集めようとしていることが見えてくる。だが、この一族に唯一の本家や唯一の英雄を探すのは、たぶん筋が悪い。文字に残る最も古い記録はオスマンの食卓にあり、そこで体系づけられた巻き物が、版図と交易路をたどって各地へ渡り、ブドウの葉をキャベツの葉に、発酵液をトマトに、羊肉を豚肉に持ち替えながら、土地ごとの顔になっていった。サルマもホルブツィもゴウォンプキもカウドルマルも、どれかが正統で、どれかが崩れた模倣なのではない。ひとつの「葉で巻いて煮る」というしぐさが、大陸を横切って四つの違う名前と味に育っていった——その道筋のほうが、祖の座を争う物語よりも、ずっと確かで面白い。

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