ものがたり / 伝播紀行

海を渡った衣揚げ ―― ポルトガルの斎日の精進揚げから江戸前天ぷらへ、後から着せられた命名譚

伝播紀行 登場する料理 2品

「天ぷらはポルトガルの宣教師が伝えた」「戯作者・山東京伝が名づけた」——どちらも人口に膾炙した物語だが、そのまま鵜呑みにはできない。海を渡ったのは特定の料理でも英雄でもなく、肉を断つ斎日のための衣揚げという一つの技法だった。ポルトガルのペイシーニョス・ダ・オルタと江戸前天ぷらは、その技法の伝来でつながっている。名と、その名の由来を語る逸話は、ずっと後の江戸で後から着せられたものだ。

ポルトガルのペイシーニョス・ダ・オルタは、カトリックの四旬節や四季の斎日(Ember Days、ラテン語で quattuor tempora)に肉を断ち、インゲンなどの野菜を小麦粉の衣で揚げた精進料理である。1543年に種子島へポルトガル人が漂着して以降、1550年の平戸、1571年の長崎開港と続く南蛮交易の窓を通じて、宣教師や商人がこの衣揚げの技法を日本へ持ち込んだ。長崎女子短期大学紀要に載る古賀克彦の研究(2023)や、農林水産省の郷土料理の記述も、この技法の伝来を長崎天ぷらの出発点として扱っている。

ただし、伝わったのは「ペイシーニョス・ダ・オルタ」という名を持つ一皿ではない。現存する最古のポルトガル料理書『Livro de Cozinha da Infanta D. Maria』(15〜16世紀の写本)は肉・卵・乳・保存食の四部構成で、魚や野菜の衣揚げを名を持つ独立した料理としては立てていない。近世ポルトガルにこの名の料理が文献上いつ現れるかは、まだ確かめきれていない。揚げる調理そのものは南蛮渡来より前から日本にあり、新しく借りたのは小麦と卵を使う衣のほうだった。だから「一人の宣教師が天ぷらを伝えた」という単線の物語よりも、斎日の衣揚げという技法が交易の海を渡った、と言うほうが史料に近い。

日本側で、この衣揚げは在来の揚げ物の伝統と結びつき、やがて江戸前天ぷらへと育っていく。文献に「てんふらり」の名が現れるのは1669年の『食道記』で、遅くともこの頃には衣揚げが料理として定着していたことがわかる。屋台の食べ物として花開くのは18〜19世紀の江戸である。ここで効いたのが食用胡麻油の都市への出回りだった。『本朝食鑑』(1697)は胡麻油を食用の油として記し、正徳4年(1714)には大坂へ胡麻油が1万7千石も入荷している。高価な油をふんだんに使う揚げ物は、魚河岸をかかえる江戸の屋台という場があってはじめて、日々の食べ物になった。

名の物語は、その江戸で後から生まれた。よく知られるのが、戯作者・山東京伝が「天麩羅」と名づけたという逸話である。上方から江戸へふらりと来た浪人のつけ揚げを、「天竺浪人がふらりと来て売る」「天は揚げる、麩羅は薄い小麦粉」と語呂合わせで京伝が漢字に当てた、という筋書きだ。出所は京伝の弟・山東京山の随筆『蜘蛛の糸巻』で、喜田川守貞の『守貞謾稿』などに再録されて広まった。だが「てんふら」の語は1669年の『食道記』にすでに現れ、京伝が活躍した天明期より一世紀も早い。日本国語大辞典やコトバンクは、この命名譚を俗説として扱っている。これは漢字表記をめぐる戯作者の洒落であって、語そのものの由来ではない。

では「てんぷら」という語はどこから来たのか。ここは決着していない。ポルトガル語やスペイン語で調味を指す tempero、斎日を指す têmpora、寺院を指す templo など複数の説が併記され、どれも決め手を欠く。『世界大百科事典』は、ポルトガル由来だと決めてかかる見方そのものを先入見だと戒めている。技法が南蛮交易で伝わったこと自体は堅い定説だが、名の由来は同じ確かさでは語れない。この二つを混ぜないことが、天ぷらの来歴を正しく読む鍵になる。

こうして見ると、ペイシーニョス・ダ・オルタと天ぷらは、斎日の衣揚げという一本の技法から分かれた二つの姿である。片方はポルトガルの精進の食卓に、もう片方は江戸の屋台に根づいた。海を渡ったのは技法であり、名とその命名譚は、渡った先の土地で後から着せられた。伝播の確かな筋と、後付けの物語とを分けて眺めると、天ぷらは「南蛮由来の一皿」という一言よりも、ずっと入り組んだ来歴を持っている。

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