ものがたり / 伝播紀行
海南の鶏飯、南洋へ ―― 一羽の地鶏から東南アジアで兄弟になった鶏スープ炊飯
海南島の一羽の地鶏から始まった鶏スープ炊きの飯は、移民の船に乗って南洋へ渡り、シンガポールでは海南鶏飯、タイではカオマンガイという別々の名を得た。祖はひとつ、枝は複数。だがこの一族にまとわりつく「五百年の歴史」「わが国生まれの国民食」という誇りの物語は、どれも料理の実際の年齢を大きく水増ししている。
中国海南島の北東部、文昌は地鶏の名産地として清代から知られていた。清代の詩文集『岭南杂事诗抄』は文昌県の鶏を海南四大名菜の筆頭に挙げ、その味を称えている。文昌鶏という鶏の評判が古いことは、この記録がたしかに証している。ただしこれは「鶏」の話であって、その鶏を丸ごと茹でて白切鶏にし、残った鶏油と鶏スープで米を炊く「文昌鶏飯」という料理そのものの話ではない。鶏スープ炊きの飯という料理の輪郭がはっきりしてくるのは十九世紀末、名の付いた店として姿を現すのは一九三〇年代、文昌の文城鎮で伍毓葵が開いた毓葵鶏飯店あたりまで下る。鶏という素材の古さと、料理の年齢は、別の時計で測らねばならない。
十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、海南島から南洋、すなわち東南アジアへ移民の波が押し寄せた。海南人は英領マラヤやシャム(タイ)に渡り、都市の街角で屋台や食堂を開く。彼らは故郷の文昌鶏飯を再現しようとしたが、南洋では文昌種の鶏が手に入らない。そこで在来の鶏に置き換え、鶏の茹で汁で米を炊くという一点の技法を、そっくりそのまま持ち込んだ。鶏も米も東南アジアには古くからある素材で、海を越えて運ばれてきたのは、この一つの炊き方そのものだった。
シンガポールでは一九二〇年代から四〇年代にかけて、この移民の炊き方が街の味として育っていく。王義元がバナナの葉に包んだ鶏飯の玉を売り歩き、逸群鶏飯(Yet Con)が一九四〇年に、瑞記(Swee Kee)が一九四九年に店を構えた。瑞記の毛李惠(Moh Lee Twee)が現代型を洗練させたと食評論家は伝える。生姜やニンニク、南洋のパンダンの葉を炊き込む工夫が加わり、海南鶏飯はやがてシンガポールを代表する一皿になった。国家遺産局はこれを無形文化遺産に数え上げている。
同じ海南移民の手は、タイにも別の枝を伸ばした。バンコクの海南系の老舗はラーマ六世の時代、一九一〇年代から二〇年代に遡ると複数のタイ語記事が伝える。タイでは「鶏脂飯」を意味するカオマンガイと呼び名が変わり、タイの在来鶏を去勢して肥え太らせ、脂を乗せる現地の工夫が加わった。海南鶏飯とカオマンガイは、どちらが先でも本家でもない。海南島の文昌鶏飯という一本の幹から、移民の記憶を通して別々の土地に分かれた兄弟である。
この一族には、それぞれに愛される作り話がまとわりついている。まず、タイのカオマンガイには「五百年の歴史を持つ」という起源伝説が語られてきた。明代に文昌(新昌)の官人が皇帝に文昌鶏を献上し、賞味された——という筋書きである。だが皇帝の名も、具体的な年代も人物名も、それを裏づける同時代の記録も欠けている。これは文昌鶏という鶏の評判の古さを、鶏脂で米を炊く現行のカオマンガイの年齢に付け替えた、俗な起源話にすぎない。カオマンガイ自体は十九世紀末から二十世紀初頭の海南移民が伝えたもので、五百年という数字に対応する史料はどこにも見当たらない。
もう一つの誇りの物語は、この料理がどの国のものかをめぐる争いである。二〇〇九年、マレーシアの観光相 Ng Yen Yen が海南鶏飯を「マレーシア固有の料理で、他国に横取りされた」と発言し(のちに誤って引用されたと釈明した)、シンガポール側が反発した。だが海南移民が根を下ろした英領マラヤは、一九六五年にシンガポールとマレーシアが分離する以前、ひとつの圏だった。だからどちらが「発明国」かは、史料の上では決めようがない。社会学者 Janine Chi は二〇一四年の研究(Contexts 誌)で、この応酬を料理をめぐる観光ナショナリズムとして枠づけている。名物を国の看板に仕立てたい気持ちが、料理の由来を実際より単純で古いものに見せてしまう。
三つめは、シンガポールの海南鶏飯を特定の店や人物の「発祥」に帰そうとする物語だ。逸群鶏飯の開業や瑞記の創業を、しばしば料理の誕生そのものとして語る。しかし一九四〇年の開業や一九四九年の創業は、「遅くともその年には鶏飯が外食として存在した」ことを示す目印であって、誰かがその年に料理を発明したという意味ではない。現行の海南鶏飯は、一九二〇年代の露店から複数の業者が少しずつ育て上げた、漸進的な産物である。
一羽の地鶏から始まった鶏スープ炊きの飯は、移民の記憶とともに海を渡り、それぞれの土地の鶏と工夫を吸い込んで、別々の名で愛される兄弟になった。後から着せられた「五百年」や「わが国起源」の衣を脱がせても、この一皿の値打ちは少しも減らない。むしろ、十九世紀末からのたった百余年で海を越えて根づいたという事実こそが、この鶏飯の一族の本当の物語である。