ものがたり / 伝播紀行

発祥店を名乗る看板の兄弟 ―― オスマンの干し肉が東欧移民の手でニューヨークとモントリオールに分かれるまで

伝播紀行 登場する料理 2品

ニューヨークのパストラミも、モントリオールのスモークミートも、名店の壁には「創業○年、当店が発祥」の看板が誇らしげに掛かっている。ところがその発祥譚は、どちらも食物史家の手であっさり覆されてきた。二皿は本家と分家ではなく、オスマンの干し肉から東欧のユダヤ移民の手で北米の二つの都市へ渡り、それぞれの街で別々に育った対等な兄弟である。

両者の一番奥にあるのは、オスマン・トルコの pastırma だった。塩をすり込み、圧をかけて水気を抜き、乾かして仕上げる干し牛肉で、その名は1624年の物価表にすでに現れている。この保存肉は、やがて隣り合うルーマニアで pastramă と呼ばれるようになった。名詞のもとは「保存する」を意味する動詞 a păstra で、名前そのものが、この肉が何のために作られたかを語っている。

19世紀後半、ベッサラビアやルーマニアから来た東欧系のユダヤ移民が、この故郷の干し肉を鞄に入れて大西洋を渡った。移民の一団はニューヨークのロウアー・イースト・サイドに、もう一団はモントリオールの移民街「ザ・メイン」沿いに根を下ろす。故地ではガチョウの胸肉で作っていたが、新しい土地で安く手に入るのは牛のブリスケット(navel cut)だった。そこで肉を牛に持ち替え、塩漬けにし、コリアンダーや黒胡椒、ニンニクをまとわせ、燻し、最後に蒸してやわらかくする。この一連の手仕事が、二つの街のコーシャ・デリカテッセンで店の看板料理になっていった。ニューヨークではパストラミ、モントリオールでは胡椒を効かせたスモークミートとして。

ここまでは、複数の食物史の書き手が独立に描く、無理のない系統である。ところが「では、誰が最初に作ったのか」という問いになると、話は一気に濁る。

ニューヨークで最も流布しているのは、「1887年にサスマン・フォルクがアメリカ初のパストラミ・サンドを考案した」という話だ。しかしこの逸話を支えるのはフォルク家に伝わる身内の語りだけで、それを裏づける独立した記録は見当たらない。もう一つの有名な看板、「カッツ・デリカテッセン1888年創業」も揺らいでいる。食物史家ロバート・F・モスは、エリス島の渡航記録(アイスランド兄弟の渡米は1902年)と市名簿(トロウ)を突き合わせ、店の名が最初に載るのは1911年だと示した。1888年という数字は、後から丸められた由緒だったことになる。英語の pastrami が活字に最初に現れるのは、辞書(OED)がたどるかぎり1895年、モンタナ州の新聞《ビュート・マイナー》に載った「ルーマニア・パストラミ」の広告で、これは料理が生まれた年ではなく、遅くともその年には存在していたことを示す下限にすぎない。

モントリオールでも事情はそっくりだ。街で最も名の知れた「シュワルツ1928年発祥」説にしても、その年より前、1894年の時点でスモークミートを製造・販売する精肉店の広告がすでに新聞に出ている。1884年に開いたアーロン・サンフトのコーシャ精肉店は、早くからスモークミートやコーンビーフを作ると広告に謳っていた。つまりシュワルツは最初の店ではなく、後に大きく広まった拠点の一つだった。発祥をめぐる名前は、サンフト(1884)、イツァク・ルドマン(1902)、ハーマン・リース・ロス(1908、ブリティッシュ・アメリカン・デリカテッセン)、ベンジャミン・クラヴィッツ(1910)と競い合い、どれか一つに収束しない。食物史家デイヴィッド・サックスは著書『Save the Deli』で、この第一考案者探しを「はっきりせず、おそらく決着しない」と書いている。

決着しない、というのがこの物語の結び目である。ばらばらに並ぶ発祥主張は、いずれも同じ移民の流れ、同じ数十年の窓を指している。誰が最初の一枚を挟んだのかは史料の上で選び出せないが、その手前にある系統——オスマンの pastırma からルーマニアの pastramă へ、そして東欧のユダヤ移民が北米へ運ぶまで——は、複数の記録がそろって描いている。見えないのは点としての起点であって、線としての来歴ではない。

だからニューヨークのパストラミとモントリオールのスモークミートは、片方がもう片方を生んだ親子ではない。同じ移民たちが持ち込んだ同じ保存肉の技を土台に、二つの街がそれぞれ牛のブリスケットで自分の一皿を仕立てた。祖と派生ではなく、対等な兄弟(同祖姉妹)として、大陸の北と南の食卓に並んでいる。

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