ものがたり / 伝播紀行
イベリアの海鮮米 ―― バレンシアの平鍋とアルガルヴェの雑炊、ひとつの米から分かれた二皿
スペインのパエリアとポルトガルのアローシュ・デ・マリスコは、遠く離れた沿岸で別々に育った兄弟である。どちらもムーア人がもたらした米を土台にしながら、片方は薪火で乾いた御焦げを作り、もう片方は魚介の出汁で汁気多めに炊いた。どちらが元祖でもない、対等な分かれ道の物語。
イベリア半島の稲作は、8世紀から10世紀にかけてアル=アンダルスを治めたムーア人の手で根づいた。コルドバ暦(10世紀)は米を農作物として記し、バレンシア南部のアルブフェラ湖畔の湿地は、やがてイベリアでも指折りの稲作地帯になっていく。この米が、半島の東と西で別々の食卓へと枝分かれしていく。
東のバレンシアでは、19世紀半ば、アルブフェラ湖畔の農夫たちが昼食に一鍋料理を作った。手近な米に、カタツムリや水鳥、インゲン豆を合わせ、浅い専用の平鍋を薪火にかけて一気に炊く。鍋底に薄く焦げ目(ソカラット)を作るのがこの土地の作法で、汁気は飛ばして米を乾いた粒に仕上げる。1840年、地元の新聞がこの料理を鍋の名『パエリア』で呼んだ記録が残る。鍋を意味するラテン語 patella が古フランス語 paelle を経てカタルーニャ語 paella になり、その鍋の名がそのまま料理の名になった。
西のポルトガル、大西洋に面したアルガルヴェの沿岸では、同じ米が別の姿をとった。エビやアサリといった在来の魚介を米と一緒に、出汁をたっぷり残して雑炊のように炊く。トマトとコリアンダーが香りを添え、仕上がりは汁気の多い『マランドリーニョ』。乾いたパエリアとは正反対の口当たりである。この汁気の多い米と魚介の炊き込み自体は古くからあったが、『アローシュ・デ・マリスコ』という名で輪郭を持った料理として定着するのは20世紀に入ってからで、料理書での成文化と2011年の顕彰を経て、ポルトガルを代表する一皿になった。
二皿は、同じムーア人の米という一本の幹から分かれた二本の枝である。片方が他方を生んだのではなく、共通の稲作の伝統を土台に、それぞれの土地の火加減と水加減が別々の料理を育てた。だからこの二つは、祖と派生ではなく、対等な兄弟(同祖姉妹)として並ぶ。
この二皿には、それぞれに愛される作り話がまとわりついている。
パエリアの名について、スペインには『パラ・エージャ(para ella=彼女のために)』が訛ったものだという恋物語が語り継がれてきた。求婚者が想い人のために腕を振るった料理だ、という筋書きである。男がパエリアを作る文化的な習わしとも響き合って人気の説だが、語源をたどると成り立たない。paella は一貫して『鍋』を指すラテン語 patella の系統にあり、恋愛譚は後から名前に付けられた俗な語源にすぎない。
もう一つ、根深いのが『パエリアはムーア人の料理だ』という思い込みである。米をイベリアに持ち込んだのは確かにムーア人であり、サフランを使う習慣もイスラム期に遡る。しかしそれは稲作料理という大きなジャンルの古い層の話で、平鍋で乾いた粒に仕上げる現行のパエリアそのものではない。料理名としての paella の記録は19世紀(1840年)にようやく現れ、ムーア期からは六世紀以上も隔たっている。しかも今日のパエリアに欠かせないパプリカ(ピメントン)やインゲン豆は、新大陸から作物が渡ってきた16世紀以降の顔ぶれである。米がいつ来たかと、料理がいつ生まれたかは、別の時計で測らねばならない。最初にその素材が現れた時代を、料理そのものの誕生と取り違えてはいけない。
西のアローシュ・デ・マリスコにも、発祥地をめぐる誇りの物語がある。ポルトガル中部レイリア県のヴィエイラ海岸を発祥地とする通説で、18世紀末の砂丘への入植と地引網漁に起点を求め、市の観光局が公式に掲げてきた。だが特定の発祥地への帰属は土地の誇りの物語であって、この名を持つ料理を18世紀まで遡らせる史料は見当たらない。豊かな魚介の獲れるポルトガル沿岸のどこかで育ったとしか言えず、正確な発祥地は史料の上では定まらないままである。
同じ一本の米の幹から、東は乾いた御焦げへ、西は汁気の多い雑炊へ。どちらが先でも元祖でもない。祖を競う物語よりも、ひとつの食材が土地ごとに違う料理へ分かれていった道筋のほうが、ずっと確かで面白い。